青春の旅立ち−大阪から名古屋へ



 1.阪和線と武豊線の完乗計画作成

2020年夏季の青春18きっぷの旅は、
5回(人)分のうち、2回(人)分を使用して、
7月23日木曜海の日、24日金曜スポーツの日で、
播但線、加古川線、姫新線の完乗に挑戦した。
その残りの3回(人)分のうち2回(人)分を使用して、
大阪から名古屋への旅を計画した。

この企画を考えている段階でJR西日本の未乗車区間は、

 おおさか東線/新大阪−放出
 阪和線/天王寺−三国ヶ丘、鳳−日根野
 加古川線/加古川−谷川
 姫新線/姫路−新見
 播但線/姫路−和田山
 赤穂線/相生−東岡山
 因美線/東津山−智頭
 福塩線/神辺−塩町

であり、JR東海の未乗車区間は、

 飯田線/平岡−天竜峡
 武豊線/大府−武豊

である。
この中で阪和線の天王寺から三国ヶ丘までと鳳から日根野、
武豊線の全区間、大府から武豊までの乗り潰しを考えた。
阪和線日根野駅は関西空港線の分岐駅でもあり、
以前は日根野から和歌山方面に向かったが、
今回は日根野から天王寺までの区間を乗り潰し、
更に翌日は武豊線全区間の乗り潰しに挑戦する。

しかしこれでは少し時間を持て余すので、
まだ未乗車だった近鉄の子会社である伊賀鉄道の乗り潰しと、
既に近鉄時代に乗車済みなものの、
第三セクター化した四日市あすなろう鉄道の乗り潰しも行う。


 2.伊賀鉄道と四日市あすなろう鉄道−計画決定

伊賀鉄道は元近鉄の路線であった伊賀線を引き受け、
2007年に設立された第三セクター鉄道である。
近鉄から分離された路線を引き継いで誕生したが、
開業時の出資比率は近鉄が98%で、伊賀市の出資は2%に過ぎない。
近鉄は2017年4月に鉄道施設を伊賀市に譲渡、
公有民営方式に移行し、伊賀市の出資比率が25%になる。

四日市あすなろう鉄道は近鉄の内部線と八王子線を引き継ぎ、
2014年に設立、2015年4月1日から同線を引き継いだ。
内部線と八王子線はナローゲージ路線で、
車両の更新時に他路線から流用出来ないなどの問題もあり、
近鉄はバス高速システムへの意向を打診、
四日市市と協議して結論として鉄道施設を四日市市が保有、
近鉄と四日市市の出資の新会社が運営することになった。

伊賀鉄道の乗り潰しと四日市あすなろう鉄道の再乗り潰しも加え、
以下のような計画を作成した。

 8月8日土曜日

JR津田沼駅南口から空港リムジンで羽田空港第2ターミナル、
07:10羽田空港出発のANA093便で関西空港に行く。
関空快速で天王寺まで行き阪和線を完乗、
天王寺から大和路快速で加茂に行きここで昼食を喰う。
加茂から関西本線で伊賀上野まで行き、ここで伊賀鉄道一日フリー乗車券を購入、
上野市で下車して駅取材してから伊賀神戸まで行く。
折り返して上野市乗り換えで伊賀上野まで戻り、
関西本線で亀山乗り換えで四日市まで行く。
スーパーホテル四日市・国道1号沿にチェックインする。

 8月9日日曜日

ホテルをチェックアウトしてあすなろう四日市まで歩き、
内部線で内部、折り返して日永、八王子線に乗り換えて西日野、
折り返して再びあすなろう四日市まで戻り、
近鉄四日市から近鉄名古屋線で近鉄富田、
JR関西本線に乗り換えて名古屋に行き昼食を喰う。
午後は東海道本線で大府、武豊線に乗り換えて半田、
徒歩移動で知多半田から名鉄河和線で知多武豊、
徒歩移動で武豊からJR武豊線で大府乗り換えで名古屋に戻る。
帰りは名古屋から東海道新幹線「のぞみ40号」で帰京する。


 3.青天の霹靂−突然の欠航連絡と計画再策定

計画に合わせて2019年12月11日、
ANAのホームページにアクセスしてANA093便、
07:10羽田空港発08:25関西空港着を予約した。
宿泊予定のスーパーホテル四日市・国道1号沿チェックインで、
8月分の予約受付が開始になる3月1日にアクセスし、
早割り60プラン、シングルルーム禁煙を予約、価格は6,000円である。
更に計画実行の1ヶ月前、7月9日木曜日、
出社前に京成高速バス予約センターに電話し、
8月8日土曜日の05:05JR津田沼駅南口発空港リムジンバス、
06:00羽田空港第2ターミナル着を予約、
JR幕張駅の指定席券売機で、
8月9日日曜日の18:14名古屋室東海道新幹線「のぞみ40号」、
19:54東京着の乗車券・新幹線特急券を購入した。
乗車区間が短いので本当は普通席を購入しようと思ったが、
勘違いしてグリーン車で購入してしまった。
買い直しはせずにそのままグリーン車で帰ることにした。
これで全ての準備は整い、あとは当日を待つだけとなった。

ところが2020年7月15日水曜日、
ANAからスマホにメールがあり、それによると、
「ご搭乗予定の2020年8月8日土曜日ANA093便、
東京(羽田)(07:10)−大阪(関西)(08:25)は、
欠航になりましたのでご案内いたします。」とのことであった。
これには正直云って呆然とした。
スタートが阪和線なので新幹線で新大阪では、
日根野までの移動時間が創出できない。
やはり飛行機で関空に移動しかない。
メールを受け取った当日、そのままANAのホームページに行き、
8月8日土曜日の羽田空港から関西空港の便を調べてみた。

 06:30−07:45 989便 18,530円から
 07:10−08:25 093便 欠航 設定なし
 08:50−10:10 3821便(SFJ運航) 25,130円から

093便を予約していたので、次の3821便だと関空到着が10:10になり、
予定では09:01に始発の関空快速で天王寺に行く。
到着は09:55で、10:14発の大和路快速で加茂まで行くことになっている。
加茂の到着は11:10で、このあと1時間32分の乗り換え時間で昼食を取る。
つまり、関空に到着した時間に天王寺にいなければならなくなる。
やはり、1本前の989便に乗り換えるしかないだろう。


 4.093便から989便へ−欠航により予定変更

欠航になってしまった093便の代わりに、
093便のひとつ前の989便で関空に行くことにした。
欠航連絡のあったその日のうちにスマホから、
989便を予約、座席指定も受けた。
そのあと出社したが、家に戻ってきて改めて考えてみたら、
搭乗予定の便が1本早くなることで、
羽田での時間が40分短くなり、
逆に関空で40分時間が余ってしまう。

空港リムジンバスは05:05JR津田沼駅南口発で、
羽田空港第2ターミナル到着は06:00予定となっている。
1本前にJR津田沼駅南口04:30発という設定もあるが、
総武緩行線の上り始発が04:40なのでこれには乗れない。
やはり05:05で羽田空港に行くしかない。
そうなると羽田到着予定は06:00固定となる。
093便は出発まで1時間10分あり、
その間に待合室で空弁を喰うことにしていたが、
989便だと出発が06:30で30分しかない。
保安検査場通過の時間と出発15分前からの搭乗開始となると、
朝食を喰う時間は勿論ないし、
バスの降り場から飛行機の場所まで遠い場合は、
移動にも10分くらいかかる場合もある。
場合によっては乗り遅れる可能性もある。

また関空到着も989便だと093便より40分早く着く。
関空での乗り換え時間は33分で1時間以上開いてしまう。
この1時間を使ったら追加取材が出来ないかと考えた。
JR西日本の未乗車区間の中で、
おおさか東線の新大阪から放出までの区間だったら、
追加で可能ではないかと思い、ネットで調べる。
関空07:45だと08:18の関西空港始発の関空快速・京橋行に乗れる。
関空快速は阪和線で天王寺まで行き、
大阪環状線を右回りで半周して京橋まで行く。
これで大阪下車し、東海道本線で隣の新大阪まで行く。
新大阪到着は09:59で、6分の乗り換え時間でおおさか東線に間に合う。
10:05新大阪始発で終点の久宝寺まで行くと到着は10:39で、
11分の乗り換え時間で大和路快速に乗り換えれば、
加茂に11:34に到着する。
加茂での滞在時間が1時間32分から1時間8分に減るが、
昼食を喰うには十分過ぎる時間である。
大阪での乗り換え時間は26分で、
この時間を利用して大阪環状線323系の取材も敢行しよう。


 5.989便の欠航−予定変更の変更

“青天の霹靂 Part2”な出来事が起こった。
欠航になってしまったANA093便の代わりに、
093便のひとつ前の989便で関空に行くことにして、
それに併せて予定を組み直し、あとは当日を待つだけとなっていたが、
出発12日前の7月28日火曜日、突然ANAからメールがあり、
2020年8月8日(土)ANA898便が欠航になったと案内があった。
これにはさすがに目が点になってしまった。
093便が欠航だから898便にしたのに、
それまで欠航になってしまっては万事休すである。
このあとの3821便では予定が組めないことは既に確認済みである。
取り敢えず、スマホからANAのホームページにアクセスして、
989便のキャンセルの手続きをする。

空路が駄目なら陸路でのアクセスしかない。
そこで新大阪まで新幹線で行くことにした。
始発の「のぞみ1号」は08:22に新大阪に着く。
ここで22分の乗り換えでおおさか東線に乗り込む。
元々の予定とは逆向きルートを辿ることになる。
この列車は34分の乗車時間で09:18に久宝寺に到着する。
7分の乗り換えで大和路快速で天王寺、
5分の乗り換えで阪和線・快速で日根野まで行くと到着は10:12になる。
日根野は既に駅取材済みなので、21分の乗り換え時間で、
10:33日根野発の紀州路快速で天王寺まで行き、
6分の乗り換えで大和路快速に乗り換え加茂まで行く。
加茂到着は12:04で乗り換え時間は38分しかない。
この時間で昼食を喰えば元々の午後からの予定にリンクできる。

しかしよく考えてみると日本の航空会社はANAだけではない。
マイレージの関係で普段はANAしか使っていないが、
羽田から関空ならJALも航路はある筈である。


 6.予定変更の変更の中止と更に変更−JAL221便に決定

出発12日前の7月28日火曜日に、
ANAからメールで2020年8月8日(土)の、
898便が欠航になったと連絡があり、
そのため陸路での予定変更を検討してきたが、
よく考えるとJALも同じ区間に航路がある筈なので、
その日のうちにJALのホームページにアクセスした。
2020年8月8日土曜日にJAL221便は、
羽田空港07:10発関西空港08:25着で、
もともとANA093便と全く同じ時間の設定がある。
そこで一番最初にANA093便で予定していた計画を、
そのままJAL221便に置き換えて実行することにした。
最安値の特別割引7-タイプDで申し込み、
合計料金は\18,830である。
ANA093便が18,130円だったため、
運賃的にはほぼ変わらない。
ただ、ANAではマイレージカードがスキップ対応だが、
JALでは普段使っていないためにその準備がない。
そこでeチケットをプリントアウトして持参する。
このプリントにあるQRコードで、
窓口で手続きしなくても保安検査場を利用できることになる。
また利用するターミナルも変更になるため、
翌日7月29日水曜日に京成高速バス予約センターに電話して、
05:05JR津田沼駅南口から06:00羽田空港第2ターミナルの予約を、
06:05羽田空港第1ターミナルに変更して貰った。

これであとは当日を待つだけとなった。
新型コロナウイルスは移動自粛が解除になったこともあり、
日に日に増えていき、お盆休みの帰省を考え直すようにと、
テレビのワイドショーなどでは話題になっている。
JAL221便まで欠航になってしまっては、
もう予定を組み直すことも出来ない。
祈るような気持ちで日々を過ごし、8月6日木曜日、
出発の2日前にJALから搭乗案内メールが届き、
やっと本当に予定を実行できると確信できた。


 7.空港リムジンバスと羽田空港第1ターミナル−旅の始まり

当日は少し雲があったものの、まあいい天気といえた。
04:40の初電に乗るつもりで支度をしていたが、
家事などに戸惑ったこともあり、04:40に間に合わず、
次の04:56になってしまった。
それでも時間的には何とか間に合うのは既に経験済みである。
JR幕張駅をSuica定期券で入場、04:56の総武緩行線で津田沼に行く。
津田沼駅到着は05:02で、05:05津田沼駅南口発の空港リムジンバスに乗り込む。
既に出発準備は整っていて、乗り込みと同時に出発となった。
05:05にJR津田沼駅を出発し、京成津田沼駅経由で羽田空港に向かう。
何時もは京成津田沼駅で大勢乗り込んできて、
ほぼ満席のまま羽田空港に向かうことになるのだが、
今日は4人しか待っている客がいなかった。
やはり新型コロナウイルスの影響で旅行に行くのを控える人が多いのだろう。
実際に羽田から関空もANAは朝の便が2本とも欠航になっている。
他の空港も欠航が発生しているのかもしれない。
Suica使用1,250円で羽田空港第1ターミナルまで行く。
何時もは・・・第2ターミナルで下車してしまうので、久しぶりに第1まで来た。



お盆休みの始まりの日にもかかわらず、空港出発ロビーは閑散としていた。
こんなことは初めての経験である。
保安検査場を通過し、24番搭乗口に向かう。
第1ターミナルの端の方だったが、それほど移動に時間は掛からなかった。
羽田空港到着からJAL221便出発までは1時間5分の余裕がある。
動く歩道で移動して24番搭乗口に到着すると、
既に窓からは今から乗る飛行機が既に準備されていた。



売店に行って空弁を購入しようと思ったが、
まだ朝早かったため今日の分の納品が間に合っておらず、
サンドイッチやおにぎりなどばかりで、
その中で唯一幕の内系だった「やまや 飛信の膳」を購入する。



これは「キングダム」タイアップの包装だった。
中にも“しおり”がサービスで入っていた。
ただ、このアニメは観たこともなく、全く興味のなかったので、
蓋に描かれていたアニメキャラが誰なのか分からなかった。
弁当を喰い終わってもまだ時間があったので、ベンチでまったりする。



羽田空港第1ターミナルのベンチには、
荷物用の机に電源用コンセントやUSB電源も装備していた。
ここで出発時間までスマホを充電しておく。
出発15分くらい前から優先搭乗が始まる。


 8.JALの空の旅と閑散の関空

羽田空港第1ターミナルから07:10に出発する、
JAL221便は15分前から優先搭乗を開始、
そのあと座席が後方の順に4回に分けて搭乗していく。
座席番号が17Aだったために一番最後の搭乗になった。
久しぶりにJALに乗ったが、
嵐がテレビでCMしていたシートが出迎えてくれた。
機内は6割くらいの搭乗率で、3+3の座席だったが、
家族や知り合い以外は隣通しに人が座らないようになっていた。
ほぼ定刻通りにドアをロックして動き出した。



欠航になっている便もあるためか、それほど待たされずに離陸した。
今日は雲が多かったが、当然のことながら離陸して上空に行くと、
雲の上に出たために晴れていた。



関空到着予定は08:25で、ほぼ時間通りに到着した。
飛行機で関空に降りてここから鉄道の旅を開始するのは、
今までに何度も経験している。
関西空港駅はJR西日本と南海電鉄の共同使用駅である。



今までに何回もこの駅を利用してきたが、
その多くは南海電鉄を利用していた。
JRを利用したのはたぶん1回だけじゃないかと思う。
今回はここから青春18きっぷの旅を開始する。



改札で3回(人)のところに、
「関西空港 8.−8 JR西日本」と検印してもらう。
ここからいよいよ阪和線の乗り潰しを開始するのだ。


 9.関空快速と大和路快速−天王寺の323系

改札で検印してもらい、ホームに降りていく。
ホームには271系関空特急「はるか」が停車していた。



ハローキティのラッピングが施されていた。
そういえば、500系新幹線もハローキティーデザインになっていたが、
JR西日本はハローキティーが好きだな・・・と思った。
経年劣化の281系は2024年度以降に新形式に置き換わる予定である。
「ハローキティーはるか」が折り返して空いたホームに、
225系5000番台が入線してきた。



これに乗り込んで天王寺に向かう。
天王寺までの乗車時間は54分である。
車内は紙の中吊り広告の代わりにモニターが設置されていた。



山手線E235系も広告がモニターに変わっているが、
天井からつるされている中吊りは紙のままである。
09:55に天王寺に到着し、10:15発の大和路快速に乗り換え予定である。
20分の乗り換え時間で、323系を取材する。



これは大阪環状線と接続する桜島線に2016年から投入された車両で、
長らく国鉄形直流電車が充当されていた大阪環状線だが、いよいよJR形が投入された。
なかなか大阪市内に行く機会がなかったが、今回初めて取材できた。


 10.天王寺の予定変更と加茂の攻防

予定では10:15発の大和路快速で加茂まで行くことにしていたが、
時間を持て余してしまったので、
ひとつ前の10:05の奈良行きに乗り終点まで行く。
奈良で乗り換えて加茂まで行くことにした。
天王寺ではJR一般型直流電車も多く見られるが、
その一方で国鉄形車両もまだ残っている。



201系は総武緩行線でも充当されていた国鉄直流通勤電車で、
JR東日本では鋼製車両はほぼ見られなくなったが、
JR西日本ではまだまだ現役で走っている。
1本早めに乗り込んだ大和路快速で終点の奈良まで行き、
ここで1本あとの加茂行きに乗り換え、終点まで行く。
加茂は既に駅取材済みだが、
側線にキハ120系が停車していたためそれを取材する。
このあと事前に調べておいた「JARA加茂店」で昼食を喰う。
もともとの予定では加茂での乗り換え時間は1時間32分で、
12:42の関西本線で伊賀上野に行くことになっていたが、
「JARA加茂店」では早めに料理が提供され、
急げば1本前の11:42に間に合うと思った。
喰い終わったのは11:39a.m.で、急いで加茂駅に戻り、
発車直前の関西本線キハ120形に乗り込む。



関西本線は名古屋からJR難波までの115.0kmで、
名古屋から亀山まではJR東海管区の直流電化間、
この先はJR西日本管区で、亀山から加茂は非電化区間、
加茂からJR難波までは再び直流電化区間となる。
非電化区間はJR西日本の気動車キハ120系が充当されているのだ。


 11.加茂の予定変更−伊賀鉄道の乗り潰し

加茂で昼食を取り、乗り換え時間は1時間32分で、
12:42の関西本線で伊賀上野に行くことになっていたが、
急いで食事を終え、何とか1本前の11:42に乗り込んだ。
1時間前のダイヤに乗り込んだことで、
このあとに1時間の余力が出来ることになる。

当初の予定では、12:42加茂発の関西本線で伊賀上野に行く。
伊賀上野に到着するのは13:17で先に伊賀上野の駅取材を、
1時間4分の乗り換え時間で完遂する。
ここから伊賀鉄道の取材に入る。
14:21伊賀上野発で上野市に行き、36分の乗り換え時間で駅取材する。
15:04上野市始発で終点の伊賀神戸まで行き、44分で駅取材する。
16:14伊賀神戸折り返しで上野市まで戻り、接続発車で伊賀上野まで帰る。
3分の乗り換え時間で16:54発の関西本線で亀山まで出る。
亀山の到着時間は17:36で、20分の乗り換え時間で四日市まで行く。

しかし1時間前のダイヤで伊賀上野に到着すると、
接続する伊賀鉄道の列車が待っていてくれた。
逆にこのまま駅員を無視して外に出るのも大人げないので、
そのまま接続を待っていてくれた電車に乗り込む。
待っていたのはJR西日本の駅員で、
ここまでの切符を回収するために乗り換えホームで待っていたのだ。
今日の牽引のある青春18きっぷを見せて乗り込む。
乗り込んだ列車は上野市止まりで、
構内踏切の前で切符を回収していた駅員に訊いて、
券売機で「伊賀鉄道一日フリー乗車券」740円を購入する。



切符を購入して直ぐに再入場、この時に検印を押して貰う。
駅取材は後回しにしてそのままホームに停車していた車両に乗り込む。



乗り込んだ電車は“伊賀焼風鈴列車”だった。
伊賀鉄道は東急1000系を譲り受けた200系が運行されている。
200系は2両編成×5本=10両が在籍している。
伊賀忍者をイメージした松本零士氏のキャラがラッピングされている。
車内は一部クロスシートが採用されている。



種車はロングシートの通勤形タイプだが、
観光需要も考慮してアコモ改造がなされている。
上野市14:02発でまずは終点の伊賀神戸まで行く。

近畿日本鉄道伊賀神戸駅は近鉄大阪線の駅である。
かつて近鉄線だった伊賀鉄道伊賀線も接続しており、
伊賀線が単式1面1線、近鉄大阪線は相対式2面2線の地上ホームを有する。
伊賀鉄道伊賀線は終着駅となっており、
かつては島式1面2線構造だったが、
2007年に駅舎改良工事が施され、6番線が廃止された。
近鉄大阪線は1番線は下り賢島方面、2番線は上り大阪難波方面が使用する。
伊賀鉄道伊賀線は5番線に付番されている。
伊賀線は近鉄となる前に伊賀鉄道の社名だった会社が敷設、
1922年7月18日に伊賀鉄道によって上野町(現・上野市)から、
名張(現・廃止)まで敷設された時に「庄田」の駅名で改行した。
当時は現在地から約600m名張方面にあったという。
伊賀鉄道は1926年12月9日に社名変更し、伊賀電気鉄道となる。
伊賀電気鉄道は1929年3月31日に大阪電気軌道に合併、
現在の近鉄大阪線となる参宮急行鉄道が1930年10月10日に、
榛原から延伸して終着駅として伊賀神戸が開業、
伊賀線の庄田が廃止され、伊賀神戸に駅が設置される。
同年11月19日に阿保(現・青山町)まで延伸され途中駅となる。
1941年3月15日に大阪電気軌道と参宮急行鉄道が合併、
戦時中の1944年6月1日に南海鉄道との合併で近畿日本鉄道となった。
不要不急路線として1945年6月1日に伊賀線伊賀神戸から西名張(元・名張)が休止、
戦後に復活したが1964年10月1日には正式に廃止された。


 12.伊賀鉄道の予定変更−上野市と茅町

伊賀神戸で駅取材して折り返し列車に乗り込み、
そのまま上野市に戻ってきた。
上野市では伊賀上野への列車が接続していたが、
これには乗らずに上野市で駅取材をする。



上野市駅は島式1面2線の地上ホームを有する伊賀線の駅である。
1番線は上り伊賀上野方面、2番線は下り伊賀神戸方面が使用する。
伊賀鉄道の本社と車両基地が併設されており、
始点及び終点は折り返しだけで留置線や社員の待機場所がないため、
上野市で運転系統が分かれている。
伊賀線は近鉄となる前に伊賀鉄道の社名だった会社が敷設、
1916年8月8日に上野駅連絡所(現・伊賀上野)から部分開業、
この時終着駅として上野町の駅名で開業した。
開業時は「伊賀軌道」の路線名だったが、
翌年12月20日に社名を「伊賀鉄道」に変更した。
1922年7月18日には上野町(現・上野市)から、
名張(現・廃止)まで延伸された。
伊賀鉄道は1926年12月9日に社名変更し、伊賀電気鉄道となる。
伊賀電気鉄道は1929年3月31日に大阪電気軌道に合併、
現在の近鉄大阪線となる参宮急行鉄道が1930年10月10日に、
榛原から延伸して終着駅として伊賀神戸が開業、
伊賀線の庄田が廃止され、伊賀神戸に駅が設置される。
同年11月19日に阿保(現・青山町)まで延伸され途中駅となる。
1941年3月15日に大阪電気軌道と参宮急行鉄道が合併、
戦時中の1944年6月1日に南海鉄道との合併で近畿日本鉄道となった。
不要不急路線として1945年6月1日に伊賀線伊賀神戸から西名張(元・名張)が休止、
戦後に復活したが1964年10月1日には正式に廃止された。
2007年3月26日に伊賀鉄道が設立、同年10月1日に伊賀線を引き継いだ。
伊賀鉄道は第三セクター鉄道だが、近畿日本鉄道の出資率が98%、
伊賀市は2%しか出資していない。
路線や車両は近鉄が所有し、伊賀鉄道は第二種鉄道事業者として、
近鉄から車両や鉄道施設を借り受けて運行していた。
しかし2017年4月に公有民営方式に移行、
鉄道施設が近鉄から伊賀市に無償譲渡された。
それによって伊賀市の出資比率は25%になった。

伊賀市の中心部は以前“上野市”だったが、
平成の大合併で伊賀市となった。
しかし駅名はそのまま「上野市」として残されている。
伊賀市は伊賀流忍者を観光資源としてアピールすべく、
上野市の副駅名に「忍者駅」を採用、2019年2月に愛称名を併記した。
しかし実際には「忍者市駅」の方が大きく、「上野市駅」は目立たない。



当然、駅名標に通常版のほかに、観光用の忍者押しバージョンもある。

このあと本当は伊賀上野に戻ることになっていたが、
1時間早めに加茂を出発したので取材時間に余力があり、
そこで再び下り方面の列車に乗り、茅町まで行くことにした。



この駅は往復する間で駅前が比較的開けていて、
折り返し時間で駅取材して時間があったら辺りを散策しようと思った。

茅町駅は島式1面2線の地上ホームを有する伊賀線の駅である。
1番線は下り伊賀神戸方面、2番線は上り伊賀上野方面が使用する。
駅舎とホームとは構内踏切で繋がっている。
伊賀線は1916年8月8日に上野駅連絡所(現・伊賀上野)から、
上野町(現・上野市)までが部分開業した。
1922年7月18日には上野町(現・上野市)から、
名張(現・廃止)まで延伸、この時茅町も同時に開業した。

この駅を十分に取材し、14:41で上野市まで戻り、
隣に停車していた伊賀上野行きに乗り換える。
乗客だけでなく、ここまで運転してきた運転手もそのまま隣の電車に乗り込み、
伊賀上野まで運転していったのだった。


 13.伊賀上野と亀山の乗り換え

茅町を14:41に出た上野市行きは14:45に到着、
隣のホーム停車していた電車に乗り換え、
1分乗り換え時間で14:46に上野市を発車し、
終点の伊賀上野には14:53に到着した。



ここから亀山行きの関西本線に乗り換えるのだが、
乗り換え時間の28分で駅取材する。

伊賀上野駅は単式1面1線と島式1面2線に、
単式ホームを切り欠いた1線のある2面4線の、
地上ホームを有する関西本線の駅である。
伊賀鉄道伊賀線も起点駅として接続、
切り欠きホームを1番線に付番、伊賀鉄道伊賀線が発着する。
駅舎に隣接した単式ホームは2番線に付番、関西本線下りが使用、
島式ホームの駅舎側は3番線に付番、関西本線の上りが使用する。
4番線は関西本線下り始発列車と一部の上り列車が使用する。
伊賀鉄道専用の改札はなく、JRの改札から入出場する。
関西線から伊賀鉄道にも直接乗り換えが可能で、
その際はJR駅員が伊賀線の切り欠きホームの前で検札する。
関西本線は関西鉄道によって敷設された路線で、
1897年1月15日に柘植から延伸開業した際、
終着駅として「上野」の駅名で開業、
同年11月11日に加茂まで延伸して途中駅となった。
関西鉄道は1907年10月1日に国有化され、
1909年10月12日の線路名称制定により関西本線となった。
1916年8月8日に旧の伊賀鉄道が上野町までの区間を部分敷設、
開業当時の駅名は「上野駅連絡所」だった。
同年9月11日に駅名が「伊賀上野」に改称された。
伊賀鉄道は1920年3月に上野駅連絡所を廃止、
国有鉄道の伊賀上野に乗り入れる形で統合された。

駅前には松尾芭蕉の句碑があり、
「月ぞしるへこなたへ入せ旅の宿」と書かれていて、
更に解説には以下のように書かれている。

  月宿塚
   月ぞしるへこなたへ入せ旅の宿
             芭蕉

  松尾芭蕉(一六四四〜一六九四)が「宗房」と号していたときの吟。
 寛文三年(一六六三)、京俳壇の重鎮だった松江重頼が編集した
 『佐夜中山集』に入集した二句の一句で、文献の上で芭蕉が二十歳の作品です。
  この句は、謡曲『鞍馬天狗』中の「夕べを残す花のあたり、鐘は聞えて夜ぞ遅き、
 奥は鞍馬の山道の、花ぞ知るべなる、こなたへ入らせ給へや」の一説を引用。
 「入らせ旅」に「入らせ給(た)べ」をかけてあり、
 その意を転じたところに興を求めている。
  季語は「月」で秋。句の意味は「この明るい月の光が道案内です。
 どうぞこちらへおいでなさってください。この旅の宿へ」ということでしょう。
  句の傾向として、当時の芭蕉が身につけていた貞徳門や談林調の特色をよく示しており、
 芭蕉が目指した蕉風調より、言葉の上でひねりを加えた句といえます。
                         三重県伊賀市
                         芭蕉翁顕彰会

このあと15:21伊賀上野発のキハ120形で亀山まで行く。
亀山はJR西日本とJR東海の境界駅であり、
関西本線も非電化と電化の境界となっていている。
ここからはJR東海の313系に乗り換える。



16:23始発の関西本線で28分掛けて四日市に行く。
四日市には前に来たことがあったが、
側線に貨物車両が留置されていて、
DF200形ディーゼル機関車も2機停まっていてこれを取材する。
さらに四日市から発着する伊勢鉄道イセ101も取材した。


 14.四日市の夜と朝−カレーらーめんとカレーライス

四日市で測線に留置されていた車両などを十分に取材し、
青春18きっぷで改札を出た。



予定では夕食を喰ってからホテルにチェックインするつもりだったが、
疲労の蓄積もあり、先に荷物を部屋に置きたいため、
事前に印刷しておいた地図で予約していた、
スーパーホテル四日市・国道1号沿にチェックインする。
カウンターではGoToトラベルキャンペーン用に、
宿泊証明書と領収書が渡された。
宿泊料金は6,000円なので、半額戻ってきても3,000円である。
ホテルの部屋に入って荷物を置いてから、
カメラバッグだけを持って外出する。
事前に調べた店に行ってみたらシャッターが降りていた。
新型コロナの影響で土曜日を臨時休業にしたのかもしれない。
仕方がないので商店街を彷徨し、
偶然見つけた「麺匠 門蔵」に行き、カレーらーめん700円を喰う。
このあとホテル隣のMINI STOP四日市浜田町店で、
ビールや缶チューハイ、つまみなどを買う。



次の日の薬を飲む用にSUNTORY南アルプスの天然水500mlも買ったが、
このコンビニのキャンペーンで、
“SUNTORY南アルプスの天然水500ml購入の方に、
SUNTORY南アルプスの天然水2Lプレゼント”というのがあり、
無料でSUNTORY南アルプスの天然水2Lを貰った。
まさかの400%添付である。
自宅などなら嬉しいが、ホテルで翌日も名古屋までは荷物を持っての移動になる。
これならウイスキーと氷を買って水割りにすれば良かった。

翌朝は5:00a.m.頃起床し、ホテルの天然温泉の大浴場で朝風呂を楽しむ。
このあと部屋に戻ってクールダウンし、6:30a.m.を待ち、1階の朝食会場に行く。
スーパーホテルは何時もなら軽食のバイキングなのだが、
新型コロナウイルスの影響で、弁当の配布となった。
弁当はカレーとナポリタンと焼売弁当で、カレーを選ぶ。



カレーを喰いながら思ったのだけれど、
そういえば昨日の夕食もカレーラーメンだったな。
まあ、カレーは好きだから連続でも全然気にならないけれど・・・。
部屋に戻って歯を磨きホテルを出る。
スーパーホテルではチェックアウトの手続きがなく、
10:00a.m.までに部屋を勝手に出て行けばいい。
このあと近鉄四日市まで行き、
隣接する四日市あすなろう鉄道あすなろう四日市に行き、
再乗り潰しに挑戦するのだ。


 15.四日市あすなろう鉄道1day切符の購入とあすなろう四日市と西日野

スーパーホテル四日市・国道1号沿を出て、
そのまま近鉄四日市駅方面に歩き、道の反対側にある、
四日市あすなろう鉄道のあすなろう四日市に行く。

四日市あすなろう鉄道あすなろう四日市は、
島式1面2線の頭端式の地上ホームを有する内部線の駅である。
四日市あすなろう鉄道は近鉄グループホールディングスの傘下に属し、
また内部線及び八王子線はかつて近鉄の路線だった。
そのためあすなろう四日市は近鉄からの連番になっており、
基本的に9番線は内部線、10番線は日永から分岐する八王子線が発着する。
内部線は1911年に設立された三重軌道が敷設した路線で、
1912年10月6日に南浜田から日永の区間が分分開業、
1913年5月16日には南浜田から諏訪前まで延伸、
1915年12月25日には諏訪前から四日市市まで延伸された。
1916年7月に三重鉄道が設立され、三重軌道の路線を継承、
1922年1月10日には日永から小古曽まで延伸、
同年6月21日に小古曽から内部まで延伸、全通した。
三重鉄道は1944年2月11日に三重交通に合併、
三重交通は戦時中の交通統合で誕生した会社で、
現在の三岐鉄道北勢線を開業させた北勢電気鉄道、
現・近鉄志摩線を開業させた志摩電気鉄道のほか、
路線バスなどを運営していた三重県下のいくつかの会社が合併して誕生した。
戦後の1964年2月1日に鉄道部門を分社化し、
三重電気軌道が誕生、これを1965年4月1日に近鉄が合併した。
長らく近鉄の路線として活躍してきたが、
内部線と八王子線はナローゲージ路線で、
車両の更新時に他路線から流用出来ないなどの問題もあり、
近鉄はバス高速システムへの意向を打診、
四日市市と協議して結論として鉄道施設を四日市市が保有、
近鉄と四日市市の出資の新会社が運営することになった。
そして2014年に四日市あすなろう鉄道が設立、
近鉄の内部線と八王子線を2015年4月1日からをき継いだ。

今回は全て切符で移動することにしていて、
券売機で切符を購入しようとしたところ、
四日市あすなろう鉄道にも一日乗車券があることを知る。
そこで予定を変更して、この1dayフリーきっぷ550円を購入する。



あすなろう四日市の改札で検印してもらい、
停車していた四日市あすなろう鉄道の車両に乗り込む。
乗り込んだ車両が八王子線直通の西日野行きだったため、
まずは西日野に行くことにした。

四日市あすなろう鉄道西日野駅は単式1面1線の、
頭端式が採用された八王子線の駅である。
かつては途中駅であったために単式ホームのままで、
来た列車がそのまま折り返すだけの構造となっている。
八王子線は1911年に設立された三重軌道が敷設した路線で、
1912年8月14日に日永から四郷まで開業時に途中駅として開業した。
終着駅の四郷はのちに「八王子村」に改称され、のちの伊勢八王子に再改称された。
1916年7月に三重鉄道が設立され、三重軌道の路線を継承、
1944年2月11日に三重交通に合併、
三重交通は戦時中の交通統合で誕生した会社で、
戦後の1964年2月1日に鉄道部門を分社化し、
三重電気軌道が誕生、これを1965年4月1日に近鉄が合併した。
八王子線は1974年7月25日の天白川の集中豪雨により、
日永から伊勢八王子が不通となり、
1976年4我1日に日永から西日野までは営業を再開したものの、
西日野から伊勢八王子までは正式に廃止されることになった。
この時に西日野駅は現在位置に移設された。
2014年に設立された四日市あすなろう鉄道に、
内部線ともに2015年4月1日に継承された。



近鉄時代の八王子線西日野駅。



 ※撮影日時 2007/03/17 16:56:32


 16.突然の予定変更、あすなろう−日永と赤堀と小古曽

八王子線西日野では列車の折り返し時間で駅取材、
慌ててここまで来た列車に乗り込み、隣の日永まで戻る。

日永駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する内部線の駅である。
また八王子線始発駅としても分岐するが、
運行上は全ての列車があすなろう四日市から発着する。
氏の式ホームは分岐する線路に合わせて三角形の形になっている。
駅舎側の単式ホームが1番線に付番、内部線下りが使用、
三角形のホームの内側が2番線に付番、内部線上りが使用、
3番線は八王子線の上下線が使用する。
日永に最初に駅が出来たのは八王子線で、
1911年に設立された三重軌道により、
1912年8月14日に日永から四郷までが開業した。
この時起点駅として開業した。
内部線は1912年10月6日に南浜田から日永の区間が開業した。

日永駅の島式ホームは「四日市あすなろう鉄道の台車」が設置されている。



そこには標準軌、狭軌、ナローゲージの実寸大の線路も設置されていて、
そこには以下のような説明文も着いている。

 この台車は、四日市あすなろう鉄道で実際に使用していたものです。
 当鉄道では、全国で3社しか運行していない特殊狭軌(ナローゲージ)の
 線路であり、日永駅は全国で唯一のナローゲージの分岐駅です。
 特殊狭軌の線路幅は762mmで、新幹線などの標準軌の線路幅(1,435mm)
 の約半分しかありません。市内には、標準軌(1,435mm)の近畿日本鉄道
 名古屋線・湯の山線や、狭軌(1,067mm)のJR関西本線、
 三岐鉄道三岐線、伊勢鉄道伊勢線が走っています。

本来はこのあと内部まで乗り潰してあすなろう四日市まで戻り、
今回の四日市あすなろう鉄道の乗り潰しは完了するつもりだったが、
1日乗車券を購入したこともあり、
またホテルを予定よりも早く出たこともあって、
突如予定を変更して全駅取材することにした。
まずはあすなろう四日市と日永の中間駅である赤堀に行く。



鉄道赤堀駅は単式1面1線の地上ホームを有する内部線の駅である。
ホームと階段の間に小さな駅舎はあるものの無人駅である。
内部線は1911年に設立された三重軌道が敷設した路線で、
1912年10月6日に南浜田(現・廃止)から日永の区間が部分開業、
この時に中間駅として同時に開業した。

赤堀で内部線下りの到着を待ち、小古曽に行く。



小古曽駅は単式1面1線の地上ホームを有する内部線の駅である。
内部線は1911年に設立された三重軌道が敷設した路線で、
1912年10月6日に南浜田(現・廃止)から日永の区間が部分開業、
1913年5月16日には南浜田から諏訪前まで延伸、
1915年12月25日には諏訪前から四日市市まで延伸された。
1916年7月に三重鉄道が設立され、三重軌道の路線を継承、
1922年1月10日には日永から小古曽まで延伸、この時終着駅として開業、
同年6月21日に小古曽から内部まで延伸、全通した。


 17.あすなろう−泊と追分と南日永

小古曽で駅取材をしてから、
上り線で2つ戻って泊に行く。
この時乗った電車が263編成で、
この列車モ263+サ123+ク163は、
一部の床がガラス張りになっている「シースルー列車」である。



台車の上の部分がガラスで下が見えるようになっており、
正しくシースルーを楽しめるようになっている。

泊駅は島式1面2線の地上ホームを有する、
内部線の駅である。
1番線は上り、2番線は下りが使用、
上下線の行き違いに使用される。
駅舎とホームとは構内踏切で繋がっている。
内部線は1911年に設立された三重軌道が敷設した路線で、
1912年10月6日に南浜田(現・廃止)から日永の区間が部分開業、
1913年5月16日には南浜田から諏訪前まで延伸、
1915年12月25日には諏訪前から四日市まで延伸された。
1916年7月に三重鉄道が設立され、三重軌道の路線を継承、
1922年1月10日には日永から小古曽まで延伸、
この時同時に開業した。

泊から下り線でひとつ先の追分に行く。

追分駅は単式1面1線の地上ホームを有する内部線の駅である。
内部線は三重軌道が敷設した路線で、
1912年10月6日に南浜田(現・廃止)から日永の区間が部分開業、
その後延伸が続き、1916年7月に三重鉄道が設立され、
三重軌道の路線を継承、1922年1月10日には日永から小古曽まで延伸、
同年6月21日に小古曽から内部まで延伸して全通した。
追分はこの時に同時に開業している。

駅を出て車両取材をすべく辺りを散策する。
道路標識にはまだ「近鉄追分駅」と書かれていた。



三重鉄道は1944年2月11日に三重交通に合併、
戦後の1964年2月1日に鉄道部門を分社化し、
三重電気軌道が誕生、これを1965年4月1日に近鉄が合併した。
長らく近鉄の路線として活躍してきたが、
ナローゲージ路線で車両の転用などが出来ないため、
近鉄は廃止を検討、四日市市と協議して、
結論として鉄道施設を四日市市が保有、
近鉄と四日市市の出資の新会社が運営することになった。
そして2014年に四日市あすなろう鉄道が設立、
近鉄の内部線と八王子線を2015年4月1日からを引き継いだ。

追分駅付近を通過する列車を取材する。



そのあと上り線で南日永に戻り駅取材する。

南日永駅は単式1面1線の地上ホームを有する内部線の駅である。
内部線が1922年1月10日には日永から小古曽まで延伸、
この時に当時に開業した。


 18.再びの内部と予定オーバーの撤収

南日永から下り列車に乗り込んで終点の内部に行く。
内部は近鉄時代にも取材したことがあり、2度目の訪問である。

四日市あすなろう鉄道内部駅は単式1面1線の、
地上ホームを有する内部線の駅である。
内部線は1911年に設立された三重軌道が敷設した路線で、
1912年10月6日に南浜田(現・廃止)から日永の区間が部分開業、
その後延伸が続けられて1916年7月に三重鉄道が設立され、
三重軌道の路線を継承して更に延伸が続く。、
1922年1月10日には日永から小古曽まで延伸、
同年6月21日に小古曽から内部まで延伸して全通した。
この時に終着駅として開業している。
内部線、八王子線で唯一の車両基地である内部車庫が併設されている。



近鉄時代の内部駅。



 ※撮影日時 2007/03/17 16:20:13

この駅は終着駅ではあるが、当初はこの先の延伸計画もあり、
そのため駅から先にも少し線路は延びている。



ここで折り返し発車を待つ間に車両取材して、
始発列車であすなろう四日市まで戻る。
既に予定の時間をオーバーしており、
10:35内部始発で17分掛けてあすなろう四日市まで戻る。
あすなろう四日市到着は10:52で、
従来の乗り潰しのみの予定では09:32に戻ることにしていたため、
1時間20分の予定超過である。
しかし今後の予定では昼の名古屋乗り換えで2時間4分、
帰りの新幹線乗り換えで1時間44分の乗り換え時間を設定しており、
イレギュラー対応も考慮した時間配分になっている。
この時間を上手く利用して遅延を取り戻さなければならない。


 19.予定変更−時短の近鉄で名古屋へ

四日市あすなろう鉄道の全駅を取材し、
内部からあすなろう四日市まで戻った。
このあと隣の近鉄四日市駅に行き、
11:10四日市発の急行名古屋行きに乗り込む。
本来の予定では、

 09:52近鉄四日市※−近鉄名古屋線・上り(8)−10:00近鉄富田[14]
 10:14富田−関西本線・上り(44)−10:58名古屋[124/2:04]

 ※昼食/矢場とん・名古屋駅名鉄店

 13:02名古屋−東海道本線・上り(15)−13:17大府

となっており、富田から青春18きっぷを使うことにしていたが、
近鉄富田とJR富田の乗り換えを事前に確認していなかったこともあり、
また名古屋発が1時間18分の遅延のため、
時間短縮のため、富田で下車せず、そのまま終点の名古屋まで行く。
乗り込んだ列車が急行だったため、33分で名古屋に到着する。
普通列車だと62分かかるので、
追加料金不要の急行に乗り込んだのは正解である。
名古屋到着は11:43で、この段階で遅延は45分に短縮された。
ここからJRに乗り込んで武豊線乗り潰しに挑戦するが、
その前に予定していた「矢場とん・名古屋駅名鉄店」に行き、
昼食としてわらじとんかつ定食1,800円を喰う。
このあとそのままJR名古屋駅の有人改札に行き、
青春18きっぷの4回(人)のところに、
「(海)名古屋駅 8.−9 入鋏済M」と検印してもらう。
8月9日日曜日は午後になって漸く青春18きっぷを使用する。


 20.大府のDLと豊竹線完乗への挑戦

昼食を喰ってそのまま青春18きっぷでJR名古屋駅に入場、
12:16名古屋発の新快速豊橋行きに乗り込む。
この段階で予定より45分の前倒しになった。
予定では名古屋で2時間4分の時間を取っていたが、
昼食を喰っただけでそのまま入場したため、
遅延を埋め合わせるだけでなく、予定を前倒しできたのだ。
ただ、電車に乗り込んで気付いたが、
予定では旅行用バッグをコインロッカーに入れるつもりだったが、
そのまま電車に持ち込んでしまった。
もう戻れないのでバッグも持ったままの取材決行になる。
新快速のため金山に停車すると次は大府である。
大府には12:31に到着、ここから武豊線に乗り換えることになっているが、
側線に貨物列車が停車しているのを目撃する。



貨物列車の場合、後回しにするといなくなってしまうこともあるので、
先にこれらを取材、このあと駅取材も決行する。

このDLは一見すると国鉄形DE10形に見えるが、
よく見ると形式名が「KE65 3」となっている。
更に車体には「衣浦臨海鉄道」と書かれていた。

衣浦臨海鉄道は衣浦湾の工業地帯の貨物輸送を目的に、
国鉄(現・JR貨物)、川崎製鉄(現・JEFスチール)や、
沿線自治体が出資して誕生した第三セクター鉄道である。
自社所有する機関車はDE10形と同一使用の、
KE65形4機が所有、廃車増備の関係で、1から3と5が在籍する。

JR大府駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
また知多半島方面に伸びる武豊線も接続しており、始発駅となっている。
駅舎側の単式ホームは東海道本線上り主本線、
内側の島式ホームの2番線は武豊線が使用、
一部東海道本線上りの待避列車も使用する。
3番線も武豊線が使用、東海道本線下り待避列車も使用する。
外側の島式ホームの4番線は東海道本線下り主本線となっている。
5番線は柵が設置されていて旅客営業は使用されず、
通過する貨物列車のみが使用する。
東海道本線が熱海から清洲(現・枇杷島)から延伸したのは、
1886年4月1日で、その1ヶ月前、
同年3月1日には武豊から熱海の区間が先に敷設された。
この路線は武豊港からの資材運搬が目的であった。
そのため武豊線の方がまっすぐ南下し、
東海道線の方が左にカーブする線形になっているが、
それは武豊線の方が先に敷設したためである。
大府に駅が出来たのは1887年9月10日である。



大府に到着した段階で始発の武豊線は12:51だが、
20分で側線の貨物列車取材と駅取材を十分にこなすのは不可能なので、
1本あとの13:21武豊線始発に乗り込むことにした。


 21.知多半田から知多武豊−名鉄の寄り道取材

大府で駅取材して13:21の始発武豊線に乗り込む。
武豊線は直流電化単線区間で、
原則的には313系2両編成が運用されている。
13:21に大府を出た列車は13:44に半田に到着する。
今回は時間的に余裕があるので、
半田から武豊までは敢えて名鉄に乗り換えて移動する。
戻る時には武豊から大府まで一気に戻り、乗り潰しを完了させる。

JR半田駅は島式1面2線の地上ホームを有する武豊線の駅である。
もともとは単式1面1線と島式1面2線構造だったが、
単式ホームがあったが今は使用されず線路も撤去されている。
そのため1番線は欠番となっていて、
2番線は下り、3番線は上りが使用する。
駅舎とホームとは跨線橋で結ばれている。
跨線橋には「開駅 明治19年3月(1886)
このこ線橋は、明治43年11月に完成JRでは最古の橋です。
昭和62年11月 半田駅」と書かれている。
東海道本線が熱海から清洲(現・枇杷島)から延伸したのは、
1886年4月1日だが、その1ヶ月前の、
同年3月1日には武豊から熱海の区間が先に敷設された。
この路線は武豊港からの資材運搬が目的であった。
半田もこの時に同時に開業している。



駅前には「知多酪農発祥の地由来」の石像が設置されて、
そこには以下のように書かれている。

    知多酪農発祥の地由来

  明治十四年頃、四代目中埜又左エ門氏は滋養と健康の
 目的で乳牛を購入し自家飲用に供していたが、
 明治十七年一月、牛乳を愛養舎豢場と名付けて営業を始めた。
  明治十九年、牧場の西に隣接した武豊線半田停車場が設置され、
 明治三十二年、柊町に移転した。
 その後、先人に習い乳牛を飼育するものが増え昭和十二年、
 知多牛乳が設立、昭和五十六年、みどり牛乳に改められ
 知多半島の酪農も大きく発展し日本一の酪農地帯となる。
  ここに、酪農発祥百年を記念し同士相集り先人の遺徳を讃え、
 碑を建立するものである。
    平成四年九月二十日
       知多酪農発祥百年を記念する会

ここから事前に用意した地図を見て名鉄知多半田まで行く。
駅前はJR半田駅よりも栄えていて、隣接するビルへ、
直接行ける渡りが設置されていた。



名古屋鉄道知多半田駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する河和線の駅である。
島式ホームが1番線、2番線、単式ホームが3番線に付番され、
1番線は上下線の折り返しや留置に使用、2番線は下り主本線、
3番線は上り主本線に使用され、橋上駅舎化されている。
名鉄知多線は知多鉄道が敷設した路線である。
知多鉄道は1927年10月14日に知多電気鉄道の社名で設立され、
同年11月24日に知多鉄道に社名を変更した。
1931年4月1日に太田川から成岩の区間が開業、知多半田も同時に開業した。
既に武豊線に半田駅があったため、区別するために知多半田とした。
知多鉄道は戦時中の1943年2月1日に名古屋鉄道に合併した。
開業時は相対式2面2線構造だったが、
1988年12月28日に橋上駅舎化され、
翌年3月5日に側線を流用して現在の1番線を新設した。

ここでは通過する車両なども取材、名鉄知多武豊まで行く。



名古屋鉄道知多武豊駅は相対式2面2線の、
地上ホームを有する河和線の駅である。
1番線は下り、2番線は上りが使用、東西に改札があるが、
画像は西口で2つホームは跨線橋で結ばれている。
1932年7月1日に成岩から河和口まで延伸、
知多武豊もこの時同時に開業した。
現在の駅舎に改築されたのは1977年10月1日である。

ここからまた事前に用意した地図を見てJR武豊まで行く。

JR武豊駅は単式1面1線の、
地上ホームを有する武豊線の駅である。
終着駅のため駅の先は車止めで切れている。
また留置用の側線も何本かある。
以前は貨物線がこの先に接続されていたが、
現在では廃止され線路も撤去されている。


 22.武豊線完乗と予定変更の笠寺

武豊を15:07の始発大府行きで終点まで行く。
半田からは名鉄で移動ししたため、
ここから半田まで入ったところで武豊線の乗り潰しが完了する。
大府では駅取材済みだったが、
側線に貨物列車の新しいDLを見つけこれを取材、
このあと名古屋行きの快速に乗り込んだ。
しかし早めに予定をこなしていて、
帰りの新幹線にはまだ時間があったので、
ここで名古屋から大府に来る途中に、
車窓からELを見掛けた笠寺に行くことにした。
快速に乗ったため、いったん金山まで行き、
下りの普通列車に乗り直して笠寺に行く。
到着して駅取材をしようと思ったが、
接近してくる貨物列車を見つけてこれを先に取材することにした。
島式ホームの5番線を通過したので、
これを金網越しに後からELを取材した。



牽引していたのはEF64形1024号機だった。
駅取材してから名古屋に戻ることにした。

JR笠寺駅は単式2面と島式1面2線の、
計3面4線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
島式ホームを相対式ホームが挟む形で敷設され、
単式ホームが1番線と4番線、島式ホームは2番線、3番線に付番、
1番線が上り主本線、2番線が上り待避線、
3番線が下り待避線、4番線が下り主本線となっている。
4番線の西側には貨物用の発着線が何本かあり、
そのため画像は西口からは跨線橋を渡って、
日本ガイシスポーツプラザ(名古屋市総合体育館)などに至る。
戦時中の1942年4月1日にこの地に笠寺仮信号場が設置され、
翌年、1943年6月1日に駅に昇格された。
名古屋南部の軍需工場への輸送力強化が目的とされている。
橋上駅舎化されたのは、1988年4月8日である。


 23.N700Sとの遭遇−旅の終わり

名古屋まで戻り、まだ時間があったので、
予定では夕食は駅弁を購入することにしていたが、
名古屋駅の地下街に行き店を探して、
「あんかけスパ・マメゾン・エスカ店」に行き、
名古屋めしとして最近テレビなどでも話題になっている、
あんかけスパの中のミラカンM800円を喰う。
このあと売店でお土産などを買い、新幹線の改札に直接入る。



今回は駅弁は買わないのでそのまま新幹線ホームに上がる。
売店でビールとつまみを買おうと思ったが、
入線してくる新幹線があったので、
一眼レフの望遠で確認したらN700Aとは少し顔が違って見えた。
たぶん、N700Sだと思い、撮影を続ける。



やはりN700Sで、乗る予定の「のぞみ40号」の2分前、
18:11着18:12発の「のぞみ422号」だ。
到着してから側面のロゴも撮影する。



しかしこれを撮影していたため、
乗る予定の「のぞみ40号」が到着まで残1分で、
売店でビールを買う暇がなくなってしまった。
そこで乗り込んでから車内販売で、ビールとつまみを買う。
19:54に東京に到着し、横須賀線・総武快速線地下ホームに行き、
20:05の君津行きで津田沼まで戻り、在来線で帰宅する。





REI RINGONO travelnotes
All rights reserved,
Copyright (C) Semisweet Apple Company and REI RINGONO 2021

inserted by FC2 system