東京散歩日和〜北千住〜




北千住は日光街道、奥州街道の第一宿として、
江戸時代から千住宿として発展した街である。
そのため今でも狭い路地が多い。
以前、仕事の北千住を何年か担当していたことがあり、
その時は道の狭さに営業車の運転では苦労させられた。
また北千住には当時の上司が住んでいたため、
北千住で飲んで京成関屋から京成で帰ったことも何度もあった。
そこで京成電鉄京成関屋からJR常磐線北千住まで歩いてみることにした。
しかし東向島から東武伊勢崎線で移動してきたため、
正確には東武伊勢崎線牛田駅からのスタートである。

京成関屋駅と東武牛田駅は道を挟んで対峙している場所にある。
実際に徒歩0分の距離であり、匍匐前進でも行けそうな距離である。

東武鉄道牛田駅 京成電鉄京成関屋駅

二つの駅がこれほど近接しているのに、別の駅名が着いているのは何故だろうか。
地名は千住曙町であり、両駅名とは関係ない。
京成線は高架上を走り、関屋駅は高架下に駅舎機能を有するが、
東武鉄道伊勢崎線は地上を走るため、上り方面には地下連絡通路で移動する。
駅から出るとまず踏切を渡ることになる。



かつての仕事の担当エリアではあるため、道は頭に入っているが、
それでも担当を離れてから10年近くたっているため、
覚えていた景色はかなり変わっているように思える。
京成は関屋から日暮里方面にほぼまっすぐに路線を延ばし、
隣は千住大橋駅となるが、東武線は牛田から大きく弧を描きながら北千住へと辿り着く。
ここで常磐線と平行する形でホームを並べる。
線路は弧を描いているが、道はほぼ直線で北千住駅へと延びている。
さほど時間がかからず約10分くらいで北千住駅前の大踏切に到着する。
一部は高架となり、多少は混雑解消がなされたが、
それでも常磐線と東武伊勢崎線の二つの路線の駅に近接した踏切のため、
通過速度も遅く、その分遮断時間も長い。



北千住駅は目の前だが、懐かしいエリアでもあるため、駅の西側を少し散策する。
駅の西側は千住宿の名残を残す下町風情のある場所で、道が狭く入り組んでいる。
駅に近い場所には飲食店も多く、
かつて上司と飲みに行った店がまだ健在なのは嬉しい限りである。



仕事で担当していた当時、得意先の近くに一匹の猫が住んでいた。
人懐こく、近所の住人や通行人からも人気の猫で、
仕事の合間にインスタントカメラで彼女を撮影し、
それを「REI RINGONO POTOs」というホームページで、
「千住の猫」として紹介した。

REI RINGONO POTOs
http://reiringono.gooside.com/

折角なので、当時の取材場所に行ってみた。



さすがにあれから10年近くたっていたため、当時の猫の姿は見つけられなかった。
それどころか、当時は北千住には多くの猫たちが住んでいたのだが、
今回は一匹も見かけることはなかった。
実は北千住駅西口は再開発が行われ、新たに丸井が出来た。
そのためかつての路地裏の一部が取り壊され、そこに住んでいた猫たちも姿を消したのだ。
確かにふり返ると丸井の巨大なビルが不自然に見える。



さらに道を行くと足立都税事務所にも行き当たる。
ここはかつて橘井堂森医院という開業医のあった場所である。
橘井堂森医院は森鴎外の父が開業した医院であり、
鴎外自身も4年間、北千住に住んでいた。
その記念碑が足立都税事務所の脇に立てられている。



   千住の鴎外碑

 翁は病人を見てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる、(中略)
 花房はそれを見て、父の平生を考えてみると、自分が遠い向うに或物を望んで、
 目前のことを好い加減に済ませて行くのに及して、
 父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐるといふことに気が付いた。
 宿場の医者たるに安んじてゐる父のレジニアションの態度が、
 有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。
 そして其時から遽に父を尊敬する念が生じた。

     森鴎外「カズイスチカ」

さらに路地裏を散策して、宿場通りを荒川近くまで行く。
北千住は“Back Street of Tokyo”という言葉がよく似合う街並みである。

昼食のために北千住駅に戻る。



東武鉄道牛田駅を出発したのが0:20p.m.、散策を終えて北千住駅に戻ったのが1:09p.m.であった。
散策も含め、49分の散歩旅であった。

取材日:2009年11月7日
区間:東武鉄道牛田駅−JR常磐線北千住駅



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