東京散歩日和〜神田神保町〜




神田神保町は大学時代にアルバイトをしていた街であり、
また三崎町にあった予備校に通っていたこともあり、
神田古書店街は馴染みの場所である。
地下鉄の駅があり、東京メトロ半蔵門線、都営新宿線、都営三田線が接続している。
JR中央・総武緩行線の御茶ノ水と水道橋からほぼ同じ距離にある。
神保町から水道橋まで710m、神保町から御茶ノ水までは750mとなっている。
予備校、大学時代にはこの二つの駅から徒歩で通っていた。
今回は水道橋から神保町まで、そして御茶ノ水まで歩いてみることにした。

水道橋は予備校時代に利用していた駅で、
東口から研数学館という予備校まで歩いて通っていた。
今回も水道橋駅東口からスタートする。



東口には白山通りが南北に通っていて、中央線と交差している。
中央線は神田川とほぼ並行に敷設されており、
神田川を渡る白山通りの橋が駅名の由来ともなった“水道橋”なのである。
水道橋駅の北側には東京ドームシティが広がっている。



巨人のフランチャイズである東京ドームや小石川後楽園などの庭園がある。
白山通りを南に下ったところが神保町となる。



歩きながら予備校時代によく利用した店を探してみる。
あれから20年以上が経っているため、残っている店は少ない。
研数学館自体も今は日本大学のキャンパスとなっており、予備校としては機能していない。
それでもまだ「研数学館」の看板は残されている。



研数学館から少し行ったところに「キッチン グラン」という洋食店があり、
その裏にあるのが「さぶちゃん」というラーメン店で、
ここは日本で初めてラーメンに半盛りのチャーハンをつけた“半チャンラーメン”を出した店である。
ただし、この店にはまだ入ったことはない。



この店の裏にあるのが「いもや」という天麩羅店である。



天麩羅を揚げる時に天麩羅鍋の油の中に指を入れて温度を測る。
この時熱すぎて「天麩羅、熱ちゃ〜」と叫んだことから、「Temperature」という言葉が出来たと、
予備校の先生が冗談で云っていた。
この店も実際には入ったことは無いけれど・・・。

入ったことがある店だが、既に別の店になっていたところが幾つかある。



この店は予備校時代によく行った店で、今は「ANGOLO」という店名だが、
かつては「キッチン カド」という店だった。
外観は変わっていないようだが、店舗自体は別のものが入ったようである。
同じく店舗は残っているものの、店は残っていないのがここである。



ここは「餃子専門店 天鴻餃子房」という店になっているが、
かつては「神田餃子屋」という店名の中華料理店で、
当時はタンメンが350円でよくバイトの帰りなどに喰っていた。
友だちといった時にはこれに餃子とビールを追加する。
“タンメンに餃子にビール”で“タンギョービー”を合い言葉にしていた。

神保町に交差点にある稲垣ビルにはかつて「稲垣書店」という医学書専門店があった。



大学1年の12月から4年の6月までこの店でアルバイトをしていた。
平日は5:00p.m.から8:00p.m.まで、9:00p.m.までのバイトだった。
閉店が9:00p.m.までで、閉店準備をしてレジの締めをやってから店を出た。
今は1階が回転寿司、2階がカレー専門店となっているようだ。

ここの裏には「さぼうる」、「さぼうる2」という喫茶店がある。
ここの「さぼうる2」は大学時代にバイト仲間と何回か入ったことがある。



ここで写真を撮っていたら通りすがりの年配の夫婦に声をかけられ、写真を撮ってあげた。
「千葉から5時半に起きて来たんです」とおっしゃっていた。
「よく来たんですか」と訊いたら「初めてです」と云っていた。

予定ではここからお茶の水に向かうつもりだったが、
時間があるので急遽、ここから靖国神社に行こうと思った。
予備校、大学とこの街には通ったが、神保町の隣が最寄り駅である靖国神社には行ったことはない。
うろ覚えだったが、確か靖国神社の展示館にはSLがあった筈だ。
それを取材しようと思ったのだ。

靖国神社の最寄り駅、九段下は神保町から東京メトロ半蔵門線に乗って一駅である。
この二つの駅間は営業キロで0.4kmしかなく、徒歩で移動することにした。
靖国通りは日本武道館でコンサートを見た帰りに御茶ノ水まで歩いたことは何度かあった。
しかしそれ以外はほとんど行ったことが無く、見知らぬ風景である。
途中に九段会館や昭和館などがあり、程なく日本武道館の“玉葱”が見えてくる。
靖国神社に行く前に、田安門から北の丸公園に行ってみることにする。



木々はすっかり秋色に染まっている。
お堀に架かる橋を渡ると田安門で、そこを抜けると日本武道館が見えてくる。



この日はコブクロがコンサートをやるようで、既に午前中から警備員がうろうろしていた。
駐車場には機材や大道具を運んできたと見られるトラックが何台も停まっている。
既にファンと思われる女性が前で記念写真を撮っていたりする。
パトカーも巡回していた。
再び靖国通りに戻り、子爵品川彌二郎卿像を一瞥してから歩道橋を渡り、
靖国神社の正面に至る。
第一鳥居と云われる大鳥居の右側には社号標がある。



ここを潜ると正面に大村益次郎銅像が建っている。
説明板には以下のように書かれている。

  大村益次郎は大村益次郎は文政七年(一八二四)、
 周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。
 広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、
 嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。
 さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、
 幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。
 ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、
 石州口の戦いを指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。
 戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。
 ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、
 京都出張中の明治二年(一八六九)九月、不満士族に襲われて重傷を被り、
 同年一一月五日大阪にて歿した。四六歳。
  明治二年六月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、
 社地選定のため同月一二日、この地を視察したことも記録に見え、
 靖國神社創建者としての功績は大きく、明治一五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、
 宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
  大熊氏廣は明治九年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、
 イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、同15年に首席で卒業する。
 卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治一八年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、
 この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。
 パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、
 さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。
 大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。
 大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。
 陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、
 上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。
 後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、
 文部省美術展覧会審査委員を務めた。

第一鳥居から第二鳥居までの間では、フリーマーケットが行われていた。
どうも靖国神社とフリーマーケットというのが結びつかない。
道路を挟んでその先に第二鳥居がある。



第二鳥居を潜ると大手水舎が左にあり、正面に神門がある。
神門には菊花の紋章がつけられている。
神門の先には桜の木が植えられており、その先に中門鳥居がある。



ここに植えられている桜の木は、東京の開花宣言に使われる標準木である。
中門鳥居の先に拝殿があるが、ここから先には立ち入らなかった。
公式参拝も私的参拝もしなかったのである。
神門を潜って右に能楽堂があり、その奥に“遊就館”という展示施設がある。
靖国神社が集めた遺品や史資料を収蔵しているものである。



拝観料は大人800円だが、玄関ホールまでは無料である。
玄関ホールにはC56型31号機や零式艦上戦闘機などが展示されていた。



蒸気機関車C56型31号機は大東亜戦争当時にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道にに使用された機関車で、
戦後タイの国鉄で使用されていたものである。
泰緬鉄道の関係者が拠金してタイの国鉄から譲り受け、靖国神社に奉納されたものである。
解説には以下のように書かれていた。

  泰緬鉄道C56型31号機関車

 この機関車は昭和十一年日本車両で製造され、
 石川県七尾機関区を走行していた機関車である。
 大東亜戦争において九十両が南方に徴用されたが、
 タイで活躍し、この三十一号機は、
 泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。
 戦後は、タイ国有鉄道で使用され、
 昭和五十二年に引退することになったが、
 泰緬鉄道建設に関係した南方軍野戦鉄道連隊関係者が
 拠金してタイ国有鉄道から譲り受け、
 昭和五十四(一九七九)年、靖國神社に奉納された。



零式艦上戦闘機はその名の通り、空母に搭載して戦地へ赴く戦闘機で、
一般的には「零戦」の愛称で親しまれている旧日本軍の戦闘機である。
解説には以下のように書かれていた。

  三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)

 昭和十五年すなわち紀元二六〇〇年に正式採用された
 「零式艦上戦闘機一一型」は、「ゼロ戦」の愛称で親しまれる。
 初陣は昭和一五年九月。
 中国、重慶においてソ連製中国軍機との空中戦で、敵の大半を撃墜。
 見方に損害なしという空前の戦果をあげ、
 その格闘性能と航続力で世界最強を誇った。
 ここに展示されている五二型は、
 初期型より主翼の両端を短く円形に整形されている。
 そして発動機の栄二一型エンジンに、
 推力式短排気管を採用して速度がかなり向上し、
 零式戦闘機の中では最も多く生産された。

ここを出てから能楽堂などを見学し、靖國神社をあとにした。
そのまま徒歩で神保町まで戻る。
ここから御茶ノ水を目指すわけだが、その前に「キッチン南海」で昼食を取る。
ここは以前から何度も訪れている洋食店である。

すずらん通りの洋食店「キッチン南海」で昼食後、
お茶の水に向けて歩き出す。
すずらん通りは靖国通りの一本裏に当たる細い道で、
飲食店などが並んでいる。



ここは「スヰートポーヅ」という餃子専門店である。
大学時代にバイトの仲間と何度か訪れたことがある。
戦前から営業していたという神保町の中でも有名な店の一つである。



「駿」は特別有名な喫茶店ではないが、
大学時代にバイトの入り時間の調整で何度か入った店である。
ここに入るとピザトーストをよく喰っていた。



「揚子江菜館」は中華料理専門店である。
ここは冷やし中華発祥の店としても有名である。
ただ、入ったことは一度もないけれど・・・。

すずらん通りを御茶ノ水方面に歩いていくと、三省堂書店本店がある。
さらに途中には書泉ブックマートや書泉グランデなどの大型書店があり、
靖国通りに面した通りには高岡書店がある。



ここは漫画専門の書店であり、予備校時代、大学時代を通じて足繁く通った店の一つである。
さらに神保町の交差点の、稲垣ビルから靖国通りを渡ったところには、
「トロワバグ」というコーヒー専門店がある。



ここは豆から落としてくれるコーヒーが飲める店で、
バイトの先輩が連れて行ってくれた。
その先輩は楳図かずお氏が必死で原稿を描いている姿を目撃したと云っていた。
となりの立ち喰い蕎麦屋もよく行った店の一つである。



「三幸園」は中華料理店で、ここもよくバイト終わりで行った店の一つである。
ここの味噌ラーメンは少し高かったが、
小さな大蒜がそのまま入っていて、大好きな味噌ラーメンの一つだった。

すずらん通りから靖国通りを渡って御茶ノ水駅に向かう途中に、
「BAMBI」という名の洋食店がある。
どちらかと云えば学生向きの店で、一度だけ入ったことがある。



バンビとは道の反対側の少し奥まったところに「駿河」というとんかつ屋さんがある。
ここも何度か入ったことのある店で、
変な話だが、トンカツより定食についてきたシジミの味噌汁の味が今でも記憶に残っている。



ここから御茶ノ水方面は楽器店が多くなり、
靖国通り沿いを行くとスポーツ用品店が多くなる。
お茶の水に向かって歩くと明治大学があり、
その奥まったところに「山の上ホテル」がひっそりと佇んでいる。



ここは戦前に建てられた建築物としても有名で、戦後一時GHQに接収されていたこともある。
また多くの文人に愛されたホテルとしても名高い。
有名作家が都心で“カンヅメ”になる時によく利用されたりもするようである。

この通りから少し奥まったところにニコライ堂がある。



“ニコライ堂”の愛称で親しまれている建築物は、
正確には「日本ハリストス正教会教團東京復活大聖堂」という。
つまりギリシャ正教の教会なのである。

大通りに戻り、そのまま行くと神田川を渡る御茶ノ水橋の手前にJR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口がある。



御茶ノ水駅は神田川沿いに平行して建てられている。
平行して建てられていると云うより、護岸の上に強引に敷設されたといった感じだ。



御茶ノ水橋から見る光景は、さだまさし氏の名曲「檸檬」のジャケットにも描かれている。
神田川に架かる橋が聖橋で、湯島聖堂に繋がる橋からこの名がついた。
下には東京メトロ丸の内線の橋も見える。
JR中央線の下を潜るため、神田川の川面に近い位置に橋が設置されている。
地下から川を渡る時だけ地上に出て、またすぐに地下に繋がるトンネルに入る不思議な光景である。

予定ではここがゴールだったが、
御茶ノ水からさらに中央線沿いを歩き、昌平橋から秋葉原に至る。
このあたりの快速線の高架は、明治時代に作られた煉瓦によるものを、
後にコンクリートで補強して使用している。
そのため煉瓦の部分は明治時代に甲武鉄道が建設したもののままであると思われる。



鉄道遺構を単なる遺構として保存するのではなく、
実際に補強して使いながら保存するという姿勢には共感が持てる。
御茶ノ水から快速線は神田へ、緩行線は秋葉原へと続くわけだが、
快速線の途中にはかつてあった万世橋駅のあとも残る。
交通博物館として利用されていた旧万世橋駅は、今はその役目を終え、ひっそりとしている。
電気街を抜け、秋葉原駅電気街口から昭和通り口に抜ける。



ここでこの散歩の旅は終わりである。
JR水道橋駅を出発したのが8:48a.m.、JR秋葉原駅に到着したのが1:10p.m.だった。
昼食時間も含め、4時間22分の散歩旅であった。

取材日:2009年11月28日
区間:JR水道橋駅−東京メトロ神保町駅−JR御茶ノ水駅−JR秋葉原駅



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