東京散歩日和〜上野〜




京成電鉄本線の日暮里から上野はその大部分が地下線である。
開通は1933年12月10日で、当時は押上線の方が本線で、
青砥から上野までは上野線と呼ばれ支線扱いだった。
上野が起点となったのは戦時中の1944年で、
終戦前の1945年2月20日に軌道法から地方鉄道法による鉄道に変更された。
つまりそれまでは路面電車と同じ扱いだったのだ。
京成本線は日暮里を出ると40パーセクの急勾配を上ってJR線を越え、
大きなカーブを描いてそのまま地下線に至る。
京成上野駅は開業当時は“上野公園”という駅名だった。
上野公園は正確には“上野恩賜公園”といい、御料地を公園にしたものだった。
そのため地上には駅を造ることができず、地下化された。
地下線には寛永寺坂駅、博物館動物園駅の2つの駅があったが、現在は廃止されている。
それでも2つとも駅舎は残っている。
そこで日暮里から上野まで出来るだけ京成地下線の真上を歩きながら、
この2つの廃止駅を取材したい。

下町日和きっぷで押上線や新三河島などの未取材駅を取材し、
町屋で都電の車両取材をしたあとに日暮里まで出る。
日暮里は京成電鉄とJRが駅舎を共有し、ホーム番号も連番となっている。
日暮里・舎人ライナーの開業で東京都、JR東日本、京成の駅舎が連結され、
ひとつの駅舎を共有する形になったため、
京成電鉄単独の出入り口は駅の脇の小さな入り口のみである。



駅看板は京成電鉄のもので、駅番号の“KS02”も京成電鉄のものだが、
その下に小さく、JR東日本、日暮里・舎人ライナーと書かれている。
日暮里駅北口改札がをを出て道を渡ったところは、
JR山手線、京浜東北線、東北・上越新幹線、東北本線・高崎線、常磐線と線路が並び、
高架線ながら京成本線の列車も見ることが出来る列車ビュースポットとして有名である。



ここで暫く行き交う列車を眺めながら、いよいよ京成上野駅を目指す。
西口側から谷中霊園を突っ切って南側に出ようと思った。



ここからだと逆に日暮里駅全景を見渡すことも出来て、
さらに遠くには東京スカイツリーも見える。



午前中はあそこの麓まで行ってきたのだと思いながら谷中霊園を進んでいく。
谷中霊園を進みながら思ったのだけれど、散策している人たちの中には外国人も多い。
この付近は“谷根千”と呼ばれる谷中、根津、千駄木の風情ある下町一帯の一部で、
日本情緒を求める外国人たちが観光に来るのだろう。
彼等は民家の軒下に置かれた金魚鉢に歓喜の声を上げて、写真を撮っていた。
途中、五重塔跡で猫を見つけ、跡を追っていくと徳川慶喜の墓地に行き着いた。



谷中霊園の一部は寛永寺の墓地も含まれているようだ。
墓地は柵に囲まれて直接触れることは出来ないようになっており、
柵の門には徳川家の家紋である“葵の御紋”が輝いていた。
そして東京都教育委員会が設置した説明書きには以下のように書かれていた。

 東京都指定史跡
      徳川慶喜墓

  徳川慶喜(一八三七〜一九一三)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、
 はじめは一橋徳川家を継いで、 後見職として将軍家茂を補佐しました。
 慶応二年(一八六六)、第一五代将軍職を継ぎましたが、
 翌年、大政を奉還し慶応四年(一八六八)正月に
 鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。
 復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、
 武家政権最後の征夷大将軍となりました。
  駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、
 明治三十一年(一八九六)には大政奉還以来三〇年ぶりに明治天皇に謁見しています。
 明治三五年(一九〇二)には公爵を受爵。
 徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。
 大正二年(一九一三)一一月二二日に七七歳で没しました。
  お墓は、間口三.六m、奥行き四.九mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に
 径一.七m、高さ〇.七二mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。

  平成二二年三月 建設
                   東京都教育委員会

道沿いに歩いて行ったために線路からは外れていってしまった。
そこで上野桜木交差点から言問通りを寛永寺方面に行く。
元寛永寺坂駅の台東倉庫という建物を見つけた。
たぶんこの近くに高架から一気に地下に入るトンネルの入口がある筈。
並木道に行列が出来ていたので行ってみると、
「depuis 2000 PATISSIER INAMURA SHOZO」という店だった。



“パティシエ イナムラショウゾウ”というからには洋菓子店なのだろうが、
入口にはドアボーイまで配されている。
きっとこの界隈では有名な店なのだろう。
そう思って反対側を見るとそこには小道があり、その先に線路が見えた。
行ってみると、そこは京成本線の線路で、反対側には地下への抗口が見えた。

京成本線は日暮里を出たあと、
大きくカーブを描きながらJR常磐線、山手線、京浜東北線と10本の線路を越え、
そのまま上野桜木付近から地下線に入っていく。



地下線の抗口には「東臺門」という扁額が掲げられている。
そしてトンネルを入ると直ぐに寛永寺坂という駅が設置されていた。
日暮里からは700mの距離であり、鉄道駅としては近い気がするが、
京成電鉄は終戦直前まで軌道法による軌道扱い、つまり路面電車の分類だった。
寛永寺坂駅は昭和に入った1933年に日暮里から上野公園が開業した時、
地下線の抗口を入って直ぐの場所に同時に設置された。
戦時中は一時休止したが1946年11月1日に営業を再開した。
しかしそれから1年と経たずに再び休止、1953年2月23日に正式に廃止された。
駅は廃止されたが駅舎の所有は現在でも京成電鉄であり、
今は“台東倉庫”という会社に貸し出されているものの、駅舎そのものは当時のまま残っている。



休日でシャッターが閉まっているのに多くのクルマが止まっている。
ここは近くの洋菓子店「depuis 2000 PATISSIER INAMURA SHOZO」の駐車場としても利用されている。
また道との境に石柱があり、「国威宣揚」や「紀元二千六百年記念」、
そして「昭和十六年十二月八日 東櫻木町有志建之」などと書かれている。



これは国旗掲揚台の跡のようであるが、
本当に真珠湾攻撃があった日にこれがつくられたのか、
東桜木町の有志が真珠湾攻撃を知って初めてつくろうと思った日なのかは分からない。
駅名の由来となった寛永寺は言問通りを跨いで反対側にある。
寛永寺は天台宗の関東総本山で東叡山寛永寺円頓院が正式名称の寺院であり、
徳川将軍家の菩提寺になっていて徳川将軍15人のうち6人が眠る。
第3代将軍徳川家光が開基となっており、現在の上野公園ももともと寛永寺の敷地だった。
しかし1868年の上野戦争で主要伽藍が焼失、1875年に川越の喜多院の本地堂を移築して本堂とした。



本来の根本中堂は現在の博物館南側の大噴水広場にあったとされ、
住職の住む本坊は東京国立博物館の敷地となっている。
言問通りから寛永寺側にT字路を入り、東京国立博物館に向かって歩く。
この地下に京成線が走っていて、東京国立博物館の隅には、京成電鉄博物館動物園駅があった。



日暮里から上野までの地下線が完成した1933年に同時に開業した。
戦時中は一時休止されていたがその後再開、
しかし1997年4月1日に休止、2004年4月1日付けで正式に廃止された。
ホーム長が4両編成分しかなく、6両編成の車両が増えた京成電鉄では使用できる車両に制限があり、
また京成上野駅と900mの距離しかなく、利用客の減少したことが休止、廃止の理由だという。
しかし駅舎は廻りの建物に合わせるように西洋様式の建築物で、現在も保存されている。
都道452号線を超えて京成電鉄地下線の上の道を更に行く。
東京都美術館の前を抜け、上野動物園と進む。



高校では美術部に所属していたため、東京都美術館は高校時代に何度も訪れている。
上野動物園も幼稚園の頃から遠足できている場所だ。
そのまま進むと上野東照宮の入口に至る。
上野東照宮は藤堂景虎の屋敷の敷地内に創建された徳川家康、吉宗、慶喜を祭る神社で、
家光が改築した社殿は1651年に造られた。



境内の掲げられていた「東照宮略記」には以下のように書かれている。

  祭神/徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜

 縁起/元和二年二月見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧上は危篤の
 家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された
 そこで高虎は家敷地であるこの上野の山に寛永四年(一六二七年)に本宮を造営した
 その後将軍家光はこの建物に満足できず慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。

参道の脇ではちょうどぼたん祭りが開かれていた。
更に行くと上野大仏がある高台が見えた。



これは顔だけの大仏で、もともとは身体もあったが関東大震災で首が落ち、
その後身体は解体され第二次世界大戦の時に供出された。
大仏の脇に掲げられていた「上野大仏略記」には以下のように書かれている。

 寛永八年(一六三一年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、
 戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。

 青銅大仏
  明暦・万治の頃(一六五五〜六〇年)木食僧浄雲師により銅佛に改められた。
 仏殿
  元禄十一年(一六九八年)露座の大仏に仏殿が建立された。
 改鋳
  天保十二年(一八四一年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。
  大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、
  その後佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
  昭和四七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。

                                 昭和四十七年春彼岸

上野精養軒も見渡せる高台を降り、そのまま京成地下線に沿って進むと直ぐに京成上野駅である。
しかしここまで来たのだからと、不忍池まで足を伸ばす。



不忍池弁財天のある中島まで行って見る。
意中の参道には出店が多く出ていて賑わっていた。



弁天堂を見て再び上野公園に戻り、そのまま京成上野駅の入口に辿り着く。
結局西郷隆盛像は拝まずに京成上野駅に辿り着いてしまった。



開業当時から地下駅として誕生した京成上野駅は京成スカイライナーの乗車駅として、
新型スカイライナーに合わせて看板が掛け替えられていた。
ここでこの散歩の旅は終わりである。
日暮里駅の京成口を出たのが0:53p.m.、京成上野駅辿り着いたのが2:49p.m.だった。
途中の谷中霊園での寄り道も含めて1時間56分の散歩旅であった。

取材日:2014年5月3日
区間:京成日暮里駅−旧・寛永寺坂駅−旧・博物館動物園駅−京成上野駅



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