“50”−mission 1



  1.終焉−愛機E-10最後の花道

林檎乃麗が所有するデジタルカメラのうち、
現在実践投入可能なカメラは3台である。
現在主力として活躍しているCanon EOS 10D、
10D登場までメインとして活躍していたOLYMPUS CAMEDIA E10、
そしてサブカメラとして携帯の良さで活躍しているCanon PowerShot S40である。
Canon EOS 10DとCanon PowerShot S40は現在でも実践投入が多く、
常に活躍しているのに対し、
OLYMPUS CAMEDIA E10はその座をCanon EOS 10Dに譲り、
現在では防湿用のプラスチックケースの中で静かに眠っている状態である。
そしてこのカメラのリチウムイオンバッテリーも既に寿命が近い。
デジカメの使用で最も気を遣うのがバッテリーの管理である。
最悪の場合、メディアは撮影現場で買うことも不可能ではないが、
バッテリーだけはどうにもならない。
デジカメもバッテリーが切れたら単なる“お荷物”でしかない。
そこが銀塩カメラとの大きな違いであり、唯一最大の弱点でもある。
OLYMPUS CAMEDIA E10がこのまま使われることもなく、終焉の時を迎える筈だった。
しかし、この愛機に最後の仕事が舞い込んだ。

林檎乃麗の鉄道写真をメインにしたホームページは3つある。
「林檎乃麗鉄道写真館」、
「Station−駅から始まる物語」、
「林檎乃麗鉄道写真集 車両図鑑」の3つである。
このうち、「Station−駅から始まる物語」は、
鉄道写真の中でも“駅”という始点から取材した成果を発表するページで、
日本全国を旅して撮影してきた駅を取材順に発表していくものである。
そしてSeason Firstとして250データを発表し、
現在はSeason Secondを発表中である。
そしてOLYMPUS CAMEDIA E10で取材してきた駅写真を数えてみると、
現在450データ分のストックが存在する。
そして今はCanon EOS 10Dでの取材が引き続き行われている。
出来ればCanon EOS 10DをSeason Thirdからにしたいため、
OLYMPUS CAMEDIA E10での取材データがあと50データ分ほしい。
そこで現在は現役から退いているOLYMPUS CAMEDIA E10を使って、
「Station−駅から始まる物語」のための50データ分の取材を決行することにした。
バッテリーの寿命が短くなっていることから、
正直云ってOLYMPUS CAMEDIA E10だけでは不安である。
そこで予備機としてCanon EOS 10Dを同行させる。
しかしあくまでもメインカメラはOLYMPUS CAMEDIA E10である。
この取材には重いカメラを2台も持参することを考慮すると、
電車移動での取材は困難である。
そこで車を使った移動で取材することにした。
そして色々と検討した結果、今まで後回しにされてきた千葉県内の駅取材を、
このOLYMPUS CAMEDIA E10ですることにした。
50データの千葉県内の駅を車で取材する旅、
その作戦名を単純に“50”とした。
そしてこのmissionがOLYMPUS CAMEDIA E10の最後の仕事になるだろう。
現在メインカメラから外れたOLYMPUS CAMEDIA E10のバッテリーを、
追加して購入するつもりはない。
それに現在売られているかも確認できていない。
OLYMPUS CAMEDIA E10は現在残っている1つのリチウムイオンバッテリーの死が、
その終焉を意味するのである。
ここに嘗て林檎乃麗の鉄道写真を支えてきた愛機OLYMPUS CAMEDIA E10との、
最後のmissionが始まった。

2005/02/20 02:00


  2.mission 1−東金線取材

OLYMPUS CAMEDIA E10での駅取材の最初のターゲットは東金線と決定した。
千葉県の鉄道は房総鉄道が施設した房総本線を中心に構成される。
加えて成田線、外房線、内房線が本線格の路線といえよう。
それに対して鹿島線、久留里線、東金線が支線格である。
総武本線は御茶ノ水で中央緩行線と相互直通している緩行線と、
東京で横須賀線と相互直通している快速線とに分けられる。
そしてまた東京−千葉間と、千葉以遠では全く様相が異なる。
緩行線の走る御茶ノ水−千葉間は複々線化され、運転本数も多いが、
千葉以遠は地方ローカル線の風情である。
千葉県は北部の東京や茨城と接したエリアと房総半島に分けられ、
北部エリアは総武本線と成田線が走り、
房総半島には東京湾側は内房線、太平洋側には外房線が海岸沿いに走っている。
中央部には久留里線が走っているほかは、
大原からの国鉄木原線は第三セクター化され、現在はいすみ鉄道となっている。
東金線は千葉県北部を走る総武線と房総半島を行く外房線とを結ぶ路線で、
総武本線成東から外房線大網までの13.8kmの単線路線である。
成東と大網の間に路線名の元となった東金のほか、
福俵と求名の中間駅がある。
今回は外房線大網を除く東金線全駅と、
総武本線の千葉から東金線との分岐点である成東までの未取材駅を取材する。
但し東千葉駅は除外し、そのかわり京成大久保駅を加える。
今回の取材では全missionで50データを取材しなければならないため、
行き当たりばったりの取材ではなく、
事前に綿密な計画を立てての取材とし、以下のような取材計画を立てた。

 mission 1

武石IC.下り→京葉道路→千葉JCT.→千葉東金道路→東金IC.→
国道126号→東金病院脇交差点右折→国道128号→福俵駅入り口交差点右折→
【福俵駅】→国道128号線戻る→東金病院脇交差点右折→【東金駅】東口/西口→
国道126号→田間交差点右折→県道124号→【求名駅】→県道124号線戻る→
田間交差点右折→国道126号→【成東駅】→県道76号→椎崎バス停左折→
【日向駅】→県道76号→日向入口交差点右折→国道409号→【八街駅】→
八街十字路交差点右折→県道22号→坂戸交差点左折→国道51号(佐倉街道)→
吉岡十字路交差点右折→上野入口バス停右折→グリーンタウン交差点横断→
【四街道駅】南口/北口→県道64号→長沼交差点横断→県道69号→
大久保十字路左折→【京成大久保駅】

八街駅は取材済みであるが、
前回の取材時に新駅舎が建設中だったための再取材である。
実際に新規取材は福俵、東金、求名、成東、日向、四街道、京成大久保の7駅である。

2005/02/23 23:23


  3.東金線−歴史と現状

JR東金線は外房線大網駅から総武本線成東駅に至る路線で、
地方交通線に分類される直流電化の単線路線である。
起点終点を含めて5駅の13.8kmの短い路線で、
中間駅では福俵駅が1面1線の無人駅であるが、
東金駅は相対式2面2線、求名駅は島式1面2線の有人駅である。
東金線は総武本線と外房線を結ぶ短い路線であるが、
その成立はふたつに分かれている。
成東から東金までは房総鉄道によって1900年(明治33年)6月30日に開業した。
房総鉄道は現在の外房線を施設した鉄道会社で、
1896年(明治29年)に蘇我−大網間を開業させていた。
更に1897年(明治30年)4月には大網から一ノ宮(現・上総一ノ宮)間で延伸、
1899年(明治32年)には大原まで延伸していた。
房総鉄道はもともと馬車鉄道を施設するつもりで千葉の有力者によって作られた会社で、
馬車鉄道としての免許申請は蘇我−大網−東金間と大網−茂原間である。
つまり現在の東金線の一部が本来は本線として考えられていた。
しかし馬車鉄道から蒸気機関に変更した段階でまず蘇我−大網間の申請を行った。
そしてそのまま房総半島を南下していく形で延伸していき、
大網−東金間は房総鉄道の支線として位置づけられていった。
それでも1900年には東金までの区間が開業した。
この3年前の1897年(明治30年)には総武鉄道によって、
既に開業していた本所(現・錦糸町)−佐倉間の現在の総武本線が、
成東まで延伸しているが、
東金から成東までの延伸は房総鉄道の時には計画されていなかった。
何故ならば1896年(明治29年)に蘇我−大網間が開業した時に、
資材運搬用の仮線として建設された千葉−蘇我間が営業運転され、
1902年(明治35年)には両国橋(現・両国)から直通運転が開始されていたため、
敢えて成東へアクセスする意味を見いだせなかったのである。
しかし房総鉄道は1907年に公布された鉄道国有法により買収され、
外房線もろとも官設鉄道に編入された。
同じく国有化された総武鉄道の成東までの延伸は国有化後に達成される。
国有化の2年後の1909年(明治42年)10月12日には国有鉄道路線名称が決定され、
ここで初めて“東金線”の名称が決定、
1911年(明治44年)11月1日には東金−成東間が延伸開業し、
ここで初めて東金線は全線開通することとなった。
尚、福俵駅は1936年(昭和11年)に新設された駅である。
東金線は以上のような歴史を辿り、国鉄の分割民営化によってJR東日本に引き継がれるが、
この路線に付随するもう一つの歴史がある。
それは1926年(大正15年)から1961年(昭和36年)まで、
東金駅から現在の千葉県山武郡九十九里町にあった片貝駅までの8.6kmの区間に、
九十九里鉄道が施設した鉄道路線が存在していたことである。
この会社は1923年(大正12年)12月21日に九十九里軌道として設立され、
当初は軌道法による軌道、つまり路面電車を運行していたが、
後に鉄道に変更し、1932年(昭和7年)3月24日には九十九里鉄道に社名変更した。
駅数は起点の東金駅を含めて7駅で、終点は上総片貝駅である。
路線区間は不明だが、
たぶん現在の県道25号東金片貝線に沿って施設されていたものと推測できる。
期間は762mmのナローゲージで、非電化単線で施設された。
車両はガソリンカーと呼ばれるもので、
運転台が進行方向にしかついておらず、始点終点で転車台による方向転換が必要だった。
片貝は漁師町で、夏季には海水浴客で賑わったりもしたが、
やがて車社会の到来で集客力を失い、
またゲージの違いから国有化もされず、
1961年(昭和36年)2月28日で廃止され、
この会社はバス事業に注力していくことになる。
現在も東金駅を中心にバス路線を抱え、
小湊鉄道の子会社として同社と同じ塗色のバスを運行している。

2005/03/01 02:52


  4.出発〜東金線 福俵〜東金取材

mission1の計画実行は2月26日土曜日に決定した。
丁度車で午後から買い物に行こうと思っていたし、
今回のmissionはたぶん半日で終わるだろうと思っていたからである。
何時も会社に行く時間に起床して出発した。
車は寒さで凍っていて、窓ガラスの霜を取るのが大変だった。
借りている駐車場なので水が使えず、凍ってしまうと大変である。
それでも何とか視界を確保し、6:32a.mには駐車場から愛車プリメーラ・カミノを出した。
6:39a.m.には武石ICから京葉道路下り路線に入り、
6:42a.m.には千葉東JCTから千葉東金道路に入り、
6:57a.m.には野呂PAにピットインする。
ここまではたいした渋滞にも巻き込まれず、
特に千葉東金道路に入ってからはほとんど進路オールクリアな状態で走行できた。
野呂PAで朝食を取る。
天ぷらうどん\390をオーダーしたのに店員が間違えて月見うどんを作ってしまい、
其処に天麩羅を入れて貰ったので天玉うどんになってしまった。
思わず得をした(^_^;)
7:13a.m.には野呂PA出て東金ICから国道126号線に出て、
そのまま九十九里海岸方面に向かって直進する。
東金病院脇を右折して国道128号線に入る予定だったが、
間違って通り過ぎてしまい、少し迷うが何とか7:38a.m.には最初の取材駅「福俵」に着く。
ここは無人駅で偶然電車の到着を取材できた。
東金線は電化されているものの単線路線で福俵は1面1線のホームだけの駅である。
ホームの中央には雨風を凌げる待合室があり、
前に乗車証明書発行機が設置されているだけである。
電車の通過を含めても10分の取材時間で充分だった。
7:48a.m.にはここを出て次の取材駅である「東金」を目指す。
国道128号線に戻ってこれを北上し、東金病院脇交差点から国道126号線に入る。
東金駅は県道119号線に駅入口交差点があり、
駅の西側に駅舎と駅前ロータリーがある。
しかしここには駐車スペースがなく、
駐車場所を探していくうちに駅から遠く離れてしまった。
そこで駅の東側に行くと駅前に大きなロータリーがある。
ここには幾らでも車を停める場所がある。
8:00a.m.丁度に車を停めて跨線橋を渡って駅取材する。

2005/03/21 22:25

※写真:東金線福俵駅に侵入する113系 撮影時刻 2005/02/26 08:26:36


  5.東金線 東金〜求名取材

東金は東金線で最も大きな駅であり、
単線の東金線の中で2面2線の相対式ホームの駅である。
ここで上下線がすれ違うことにもなる。
また外房線の中には東金回りで成東まで行くという編成もあり、
東金線は基本的には単独で大網から成東までを運行しているが、
一部は外房線との一体運用でその存在価値を示している。
駅舎は木造で瓦が乗っている。
8:14a.m.に東金駅の取材を完了して国道126号線に戻り、
成東方面に向かって国道126号線を北上した。
そして予定通り田間交差点から県道124号線に入り、
3つ目の駅である「求名」に行く。
“求名”は「ぐみょう」と読み、駅舎は木造の味のあるものだった。
駅前には駐車場が設置されていて、
その看板には「みんなで乗ろう東金線!」と大きく書かれていた。
その駐車場は登録制で登録されていないと利用できないと書かれていた。
逆にいうと登録者には(多分)無料で使わせているのだろう。
廃線の危機にある地方交通線ならではの措置といえる。
そして木造の待合室を潜って跨線橋からホームに行こうとして驚いた。
跨線橋を下りたところにプレハブの小屋があり、そこが駅員詰め所になっている。
つまり本当の意味での駅舎はそのプレハブの建物なのだ。
東金駅があるのだからここでの列車交換は意味がないし、
有人駅にするほどの駅ではないと思っていた。
1面2線の島式ホームだから出来る駅舎設置方法である。
しかし改札口はなく、駅舎前を通過してホームに行くというだけである。
地方の利用客の少ない駅だから出来る方法である。
求名の近辺も最近では住宅団地が出来て利用客が増えてきていることもあって、
多分有人駅にしているのだろう。
ただあの味のある駅舎を残してくれていることには感謝したい。
求名駅の取材を終了して08:37にはここを出て同じルートで国道126号線に戻り、
更に北上して東金線の終着駅である総武本線成東駅を目指す。

2005/03/21 23:04

※写真:味わいのある駅舎の東金線求名駅 撮影時刻 2005/02/26 09:13:57


  6.総武本線 成東取材 ふたつの石碑

国道126号線を北上して津辺交差点を左折すれば成東駅に至る。
しかしこの交差点を通り過ぎてしまい、
総武本線を立体交差で通り越してから自分の間違いに気がついた。
しかし流れもあって直ぐにUターンを出来ず、
暫く行ってT字路で元の道に交差点で繋がっている道に、
路地が繋がっている場所を発見して、
混雑している道で何とか逆方向に入れた。
同じ道を戻り、そして成東駅を取材する。
成東駅は総武本線の駅であり、東金線との分岐点の駅でもある。
成東駅も東金駅と同様、木造で瓦の乗った平屋の駅舎だった。
そしてこの駅にはふたつの石碑が建っている。
ひとつは「礎」という大きな文字が彫られている石碑で、
駅の出入り口の脇に立てられている。
その脇には木製の説明書きがあり、以下のように書かれている。

   礎について

 昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、成東町構内下り
一番線に停留中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分火煙を発した。之を認
めた国鉄職員十五名将兵二十七名は、被害を最小限度に止めようと機を
失せず身を挺して貨車の隔離消化に努め、一方旅客及び町民を避難させ
たが、必死の検討も空しく十一時五十六分弾薬は遂に爆発して全員悉く
壮烈な最後を遂げ、平和の礎と化しました。昭和三十二年八月十三回忌
に当り、その功績を称え、町民及び鉄道職員を初め多数の方々の御支援
によって茲に礎の碑を建立せられました。

もうひとつの石碑は駅の脇に建てられ、
石碑の脇には蒸気機関車の動輪も設置されている。
石碑には大きく「魁」と書かれ、
その下に以下のように説明書きが彫られている。

 わが両総の地に世に魁(さきがけ)て鉄道施設の狼煙をあげ
生涯をこの事業に捧げた人は実にわが成東町の先覚安井理民氏である。
氏は安政六年(一八五九年)三月わが町の素封安井家に生まれ
二十才で既に戸長として町政を担った青年戸長の夢は常に大きかった。
やがて県下に鉄道を敷き交通運輸の便を計り
郷土の一大発展を図ろうとの大理想を抱き明治十九年決然立ってその運動にはいった。
まず東京神田に創立事務所を設け本町の塚本正脩氏を事務長に推し
相扶け相謀り各地の有力者を歴訪しては参加を需め
或は各種資料の調査研究に或は誓願に或は資金集め東奔西走の日々が続いた。
かくて釆後七年有餘の血みどろの活動は遂に家産を傾け
あまつさえ病を得て再び起たず明治二十七年二月十六日可惜奮闘の生涯を閉じた。
享年三十有六才。
しかしその事業は後人に受継がれ明治三十年六月佐倉銚子間の開通を最後に
両総を縦断する総武鉄道全線の完成を見るに至り
氏の点じた灯の光は皓々と輝き亘ったのである。
わが町は茲に記念碑を建て以て永く氏の功績を称えんとするものである。
   昭和四十六年二月十六日
                    成東町

ふたつの石碑がこの駅を含めた房総横断鉄道の成り立ちや、
戦時中にあった不幸な出来事を物語っていた。
つい見落としがちな石碑だが、
こういったところに地元の人しか知らない有用な情報があるものである。
取材を終了し、9:10a.m.に成東駅を後にする。
このあと日向駅の取材のために県道76号線に行かなければならなかったのだが、
また間違って県道118号線に入ってしまった。
途中まで行って間違いに気付き、引き返す。
そして成東駅近くまで戻って予定通りの県道76号成東酒々井線に入る。

2005/03/23 22:49

※写真:総武本線成東駅全景 撮影時刻 2005/02/26 09:45:55


  7.総武本線 日向〜四街道取材

県道76号成東酒々井線はその名の通り、
成東から酒々井まで総武本線とほぼ並行に走る道路である。
成東からこの道に沿って日向、八街と行って取材する。
この道は沿道に住宅街がほとんどなく、山の中を走っているような道だった。
そして燃料計はEmptyを示していた。
こんなところでガス欠したら救いようがないな・・・と思った。
それでも何とか「日向」に到着する。
現地に着くまでは無人駅であろうと思っていたのだが、
この駅は小さいながらも有人駅であった。
9:26a.m.に到着し、4分の取材でこの駅を後にする。
ガソリンスタンドを探しながら県道76号線を更に酒々井方面に向かって進み、
いつの間にか「八街」の街に着いていた。
八街は下総開墾会社が開発した13の街のひとつである。
この13の街は番号を町名に織り込むようになっており、
初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、
八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三となっている。
八街は以前仕事で何度か来たことがあるし、
駅取材でも来たことがあるので付近の地理は何となく頭に入っている。
以前は平屋の駅舎だったが、現在は橋上駅化している。
この新しくなった八街駅を取材し、9:59a.m.には八街駅を出る。
八街を出てから次の取材駅である四街道駅を目指す。
八街十字路交差点を右折して県道22号千葉八街横芝線に入る。
四街道駅を目指す中でENEOS八街神田SSで給油し、
ガス欠の心配を払拭して安心して四街道駅を目指す。
10:35a.m.、「四街道」に到着する。
地図では南口にも駅前ロータリーがあるように写っていたが、
実際は南口には大きな自転車置き場になっていて、車を駐車するスペースさえない。
近くの踏切から北口にまわり、駅取材する。
この駅の中心はやはり北口で大きなロータリーもあり、
このロータリーには、
「棒杭や 四ッ街道の 冬並木 子規」という句碑が建っている。
その句碑の側面には以下のように書かれている。

 正岡子規の句碑を建てる辞

 総武本線の前身株式会社総武鉄道は、明治二十七年
七月二十日、市川と佐倉の間に、次いで同年十二月九
日に、本所より佐倉までが開通した。四街道駅の開設
はこの日である。開通後間もない某日、当時少仕の新
聞記者であった俳人で歌人の正岡子規は、本所より佐
倉までの発句枕の旅を試み、同月三十日付の日本新聞
に、その紀行文「総武鉄道」を発表した。
 棒杭や四ッ街道の冬並木
の句はその文中にある。往時の駅周辺のたたすまいを
余すところなく語っている。今、近代的駅前広場の完
成に当り、四街道の歴史を語る老銀杏樹と共に、市の
黎明期を後世に永く伝えるよすがとすべく、有志六百
五十九名、二十三団体、相寄り相語り、浄財を持ち寄
り、右の句を碑に刻みこの地に建てる。
 昭和六十一年三月三十一日
  四街道駅前に正岡子規の句碑を建てる会代表・・

四街道は総武本線千葉以遠の中でも、
比較的千葉に近く栄えている駅である。
10:58a.m.にこの駅の取材を終え、最後の取材駅である京成本線大久保駅に向かう。

2005/03/24 00:03

※写真:総武本線八街駅新駅舎 撮影時刻 2005/02/26 10:31:44


  8.京成本線 京成大久保取材

四街道駅で6つめの新規駅取材を終え、
残りは京成本線大久保駅1つになった。
この駅を今回最後の取材先に選んだのは、
このあと津田沼での買い物があったからだった。
言い方は悪いが、次いでの取材であった。
しかしそれでもこの大久保駅の取材が完了すれば、
京成本線津田沼−成田空港間で未取材駅は、
前回の取材時に工事中だったユーカリが丘だけになる。
そして総武本線四街道駅と京成本線大久保駅は距離は約11kmと離れているが、
県道66号浜野四街道長沼線一本で結ばれている。
そして京成大久保駅周辺は路上駐車が難しい地域でもあった。
以前にも何度かこの近くを通ったことがあったが、
車を停められずに駅に行ったことはない。
今回も駐車スペースを探しているうちにかなり遠くに行ってしまい、
また改めて「大久保」駅に向かって漸く車を止め、
取材が完了したのは0:10p.m.になっていた。
私鉄によくあるタイプの相対式2面2線のホーム配置で、
ホーム端の道に改札口を設置している。
当然その道は踏切で線路と交差する形である。
こういう配置にすることで改札は上下線でそれぞれ設置しなければならないが、
跨線橋を設置する必要がなくなる。
京成大久保駅の駅取材を完了して、JR津田沼駅南口方面に向かい、
サンペデック専用駐車場に車を停め、
まずはサンペデック内「大食」に行き、海鮮五目そば\850+42喰う。
昼食を喰い終わったのは0:54p.m.だった。
そのあといろいろと買い物をして、3:02p.m.にサンペデック駐車場から車を出す。
家の駐車場に戻ってきたのは3:30p.m.だった。
これでmission 1の取材は完了した。
残りの取材予定駅数は43データになった。

2005/03/24 22:57

※写真:京成本線大久保駅 撮影時刻 2005/02/26 12:47:45


  9.mission 1 総括

取材日:2005年2月26日土曜日

出庫:6:32a.m.
帰庫:3:30p.m.
取材時間:8時間58分(買い物時間2時間37分を含む)
走行距離:131km

総取材駅数:8駅
新規取材駅数:7駅

撮影枚数:174枚
保存枚数:76枚
採用率:43.6%

2005/03/24 03:12

※画像:mission 1行動予定表





REI RINGONO travelnotes
All rights reserved,
Copyright (C) Semisweet Apple Company and REI RINGONO 2006-2012

inserted by FC2 system