文月富山高岡純情物語



  1.北陸の3つの路面電車と夏期休暇の計画

日本の路面電車は21ある。
北は北海道の札幌市電、函館市電、
南は九州の筑豊電鉄、長崎電軌、熊本市電、鹿児島市電と、
路面電車の無い街に暮らしていると気付かないが、
思ったよりも日本にはまだ路面電車が残っている。
北陸にも富山に富山地方鉄道市内線、高岡に万葉線、福井に福井福武線と、
3つの会社が存在した。
そして2006年4月29日に新しい路面電車の会社が富山に誕生した。
それが“富山ライトレール”である。
この会社はJR富山港線の路線を引き継いで誕生した第三セクターで、
日本で一番新しい路面電車の会社でもある。
そして万葉線に次いで2番目に誕生した第三セクター方式の路面電車の会社でもある。
国鉄の特定地方交通線や赤字の私鉄路線を引き継いで誕生したり、
整備新幹線の開業で並行在来線がJRから分離されて誕生した第三セクターは多いが、
JRの路線を引き継ぎ、しかもライトレール化して誕生したケースは珍しい。
万葉線はそれまでの万葉線を運営していた加越能鉄道が廃止を決めたために、
高岡市と射水市と富山県が共同出資して出来た鉄道会社で、
元々あった路面電車の路線を引き継ぐ形で誕生した。
しかし富山ライトレールは鉄道路線を引き継いでライトレール化したという点で新しい。
ライトレール化したために運転本数が増え、それによって利用客も増やし、
クルマ社会からの脱却をはかりたいという富山県の思惑もある。
また新たにライトレール化したことで、
仕様車両をすべて新造し、そのため全車が超低床車でバリアフリー化が達成されたことに加え、
最高速度も60km/hに設定することが出来、
“遅い”という路面電車の欠点も克服できている。
富山港線は以前富山を訪れた時に完乗し、終点の岩瀬浜まで行ったことがあるが、
“富山ライトレール”になってからは全く訪問していない。
そこで富山ライトレールの取材を含め、
同じと山の富山地方鉄道市内線、万葉線の取材を含め、
2泊3日の北陸旅行を計画した。
使用するキップは“北陸フリーきっぷ”で、
都区内から北陸のフリーエリアまでは上越新幹線+在来特急と、
寝台特急「北陸」のB寝台か選べる。
以前このキップで北陸に行った時には行きに「北陸」のB寝台個室“ソロ”を使ったが、
今回も「北陸」に乗りたいと思い、
行きに使用する案、帰りに使用する案などをいろいろと検討したが、
そうなると取材時間に制限が出たり、
また仕事が終わってからの「北陸」乗車や、朝帰ったからの当日出勤など、
無理な計画になってしまう。
そこで今回は寝台特急「北陸」を諦め、行きも帰りも新幹線+「はくたか」を使うことにした。
東京から上越新幹線で越後湯沢まで行き、
ここから特急「はくたか」で北陸エリアまで行く。
しかし乗車時間が長い上のでちょっとしんどい。
取材優先で「北陸」を諦めたこともあり、今回は奮発してグリーン車用の“北陸フリーきっぷ”を購入することにした。
普通車用が\21,400でグリーン車用は\24,000と\2,600高いが、
長距離移動の苦痛を考えると今回は思い切ってグリーン車用を購入することにした。
7月25日金曜日に所定休暇(夏期休暇)の2日間のうちの1日分を使い、
2泊3日で以下のような計画を立てた。

7月25日(金)

05:33幕張−中央・総武緩行線・上り573B(6)−05:39津田沼[8]
05:47津田沼※−中央・総武緩行線・上り537B(34)−06:21秋葉原[3]
06:24秋葉原−京浜東北線・南行501C(4)−06:28東京[32]
07:00東京※−上越新幹線「Maxとき303号」(72/1:12)−08:12越後湯沢[8]
08:20越後湯沢※−特急「はくたか2号」(104/1:54)−10:14富山[478/7:58]
 ※富山市観光案内所にて富山まちなか岩瀬\800購入
 ※富山ライトレール全電停取材
 ※富山地方鉄道市内線電停取材

18:12富山※−特急「しらさぎ16号」(12)−18:24高岡

 ※スーパーホテル高岡駅南チェックイン

7月26日(土)

 ※スーパーホテル高岡駅南アウト
 ※万葉線・如意の渡し一日フリー乗車券\800購入
 ※万葉線全電停取材
 ※スーパーホテル高岡駅南チェックイン

7月27日(日)

 ※スーパーホテル高岡駅南アウト

08:08高岡※−氷見線・下り529D(20)−08:28雨晴[44]
08:52-55雨晴−氷見線・上り528D(20)−09:15高岡[23]
09:38高岡−特急「はくたか7号」(11)−09:49富山[696/11:36]

 ※富山市観光案内所にて富山まちなか岩瀬\800購入
 ※富山地方鉄道市内線残全電停取材
 ※富山ライトレール車両取材

16:11富山※−特急「しらさぎ14号」(36)−16:47金沢[30]
17:17金沢※−寝台特急「はくたか21号」(162/2:42)−19:59越後湯沢[19]
20:18越後湯沢−上越新幹線「Maxとき348号」(62/1:02)−21:20東京[17]
21:37東京−総武快速線・下り2067F(27)−22:04津田沼[10]
22:14津田沼−総武緩行線・下り2114C(6)−22:20幕張

富山ライトレールと富山地方鉄道市内線は共通の一日乗車券“富山まちなか岩瀬”を発行している。
それを購入して金曜日と日曜日は富山でこの2社を取材し、
まる一日使える土曜日に高岡の万葉線を取材することにする。
6月25日水曜日には指定席券売機で“北陸フリーきっぷ”を購入、
同時に7月25日の上越新幹線「Maxとき303号」と特急「はくたか2号」の指定席を取り、
ホームページからスーパーホテル高岡駅南のシングルも予約する。
27日金曜日には帰りの新幹線と特急の指定席も取り、これで準備は万端である。

2008/08/01 10:56


  2.北陸の3つの路面電車の設立と現状

今回取材する富山地方鉄道、万葉線、富山ライトレールは、
今は3つの会社に分かれているが、
お互いに全く関係なく設立され、今日に至ったわけではない。
むしろそれぞれに関係を持ちながら現在に至っているのである。

富山地方鉄道は、富山を中心に鉄道路線と軌道路線を所有する鉄道会社で、
鉄道事業だけではなく、バス路線も所有する。
設立の経緯は戦時中の「陸上交通事業調整法」に基づき、
1943年1月1日に現在の鉄道線の本線の一部と立山線の一部を所有していた富山電気鉄道を中心に、
加越鉄道、富山県営鉄道、黒部鉄道、越中鉄道、富山市営軌道の6社が合併して誕生した。
この大合併の前にも富山電気鉄道は立山線の一部となる立山鉄道、
現在の不二越線を所有していた富南鉄道、富岩線を所有していた富岩鉄道を合併している。
富岩線はのちに国鉄富山港線となり、現在の富山ライトレールとなるのである。
戦後富山地方鉄道は、富山県と石川県を結ぶ鉄道を新設する計画を立て、
旧国名の加賀、越中、能登の一文字ずつを取って加越能鉄道を設立する。
結果的にこの新線建設は中止になったが、
親会社の富山地方鉄道から加越線、高岡軌道線、伏木線と富山県西部のバス事業が譲渡される。
加越線、伏木線はのちに廃止となるが、
高岡軌道線は現在も万葉線に引き継がれて営業している。
1966年4月5日には富山地方鉄道射水線が富山新港の建設によって分断されることとなり、
射水線越ノ潟−新湊間が加越能鉄道に譲渡され、新湊港線となった。
分断された区間に関しては富山県営渡船が航路を新設している。
富山地方鉄道は1943年の設立時に富山市営軌道を合併し、軌道線も所有する。
軌道線は6.4km、20電停の路線で、
南富山駅前−富山駅前の3.6kmが本線、富山駅前−丸の内の1.0kmが支線、
丸の内−安野屋の0.6kmが安野屋線、安野屋−大学前の1.2kmが呉羽線となっている。
しかし運行上は南富山駅前から富山駅前で折り返す系統と大学前まで行く二つの系統に大別され、
実際には1本の路線として見ることが出来る。
この軌道線は1913年9月1日に富山電気軌道として開業し、1920年7月1日に富山市に譲渡された。
富山地方鉄道に合併されるまでは市電として走っていたことになる。
富山市は市内中心部の環状線を計画しており、
地鉄市内線の丸の内から西町に新線を建設し、環状運転をする計画である。
2007年10月に出来たた地域公共交通活性化法を適用しての新線建設計画で、
新線建設と電停の設置は富山市が行い、環状運転のための新車購入も市が行う。
運行については富山地方鉄道に委託する形になり、
“上下分離・官設民営方式”になる予定である。
またさらに富山市は現在富山地方鉄道滝上線をLRT化する構想を持っており、
これが実現すれば富山地方鉄道市内線の営業距離は18.8kmになることになり、
広電や土佐電に次ぐ距離となる。
また北陸新幹線金沢延伸時には富山駅も高架化され、
現在北陸本線によって分断されている富山ライトレールとの直通運転も計画されている。
路面電車は戦後、モータリゼーションの推進とともに邪魔者扱いされ、
特に供用区間については多くの路線が廃止され、縮小されていったが、
ここに来て環境問題やCO2削減問題から再び見直され、追い風になっている。
自答社の保有台数が多く車社会化が進んでいる富山市でも、
再び路面電車を見直し、脱車社会への転換を模索している。

万葉線は2001年3月31日に設立された第三セクターで、
それまでの万葉線を運営していた加越能鉄道から路線を引き継いだ。
万葉線の路線は高岡軌道線と新湊港線という鉄道線で、
これらを総称して万葉線という。
高岡軌道線は高岡駅前から六渡寺までの7.9kmで、
米島口アルビス米島店前−能町口駅間のJR西日本氷見線を跨ぐ区間と、
中伏木から六渡寺間が専用軌道となっているが、
あとはすべて供用区間を走る。
戦後の1948年4月10日に富山地方鉄道により地鉄高岡−伏木港間7.3kmが敷設され、
1951年4月1日には米島口から分岐して新湊(現・六渡寺)までの区間が敷設され、
新湊から富山地方鉄道射水線に乗り入れ、富山地方鉄道市内線まで直通運転を開始した。
1959年4月1日に加越能鉄道に高岡から新湊までの路線が譲渡された。
譲渡に当たり、地鉄高岡を現在の位置に変更し、新高岡駅に改称している。
加越能鉄道は、1950年10月23日に富山地方鉄道の出資によって設立された鉄道会社で、
加賀、越中、能登を結ぶ鉄道を造ることを目的で設立されたため、
“加越能”と名付けられた。
設立時に地鉄から現在は廃止になっている加越線を譲渡された。
そして1959年4月1日に高岡軌道線と伏木線を譲渡されたのである。
富山港の新港建設が持ち上がり、地鉄射水線が新港建設によって分断されることになってしまった。
そこで1966年4月5日に射水線の高岡側である新湊(現・六渡寺)−越ノ潟間が、
新湊港線と名称を変えて加越能鉄道に譲渡された。
分断された堀岡−越ノ潟間は県営渡船で結ぶことになったが、
やはり乗り換えの不便さから大幅な乗客減となってしまった。
このため加越能鉄道の鉄道線の経営は悪化し、
1971年9月1日に伏木線を廃止、
本来の目的である能登までの延伸が実現しないまま1972年9月16日に廃止されてしまった。
1980年12月6日に高岡軌道線と鉄道線である新湊港線を総称して“万葉線”と呼ぶようになる。
しかし利用者の減少は続き、ついに加越能鉄道は万葉線の廃止とバス路線転換で、
すべての鉄道事業からの撤退の意向を示した。
これを受けて2001年に高岡市と旧新湊市が中心となって、
第三セクター「万葉線株式会社」を設立、
加越能鉄道の高岡軌道線と新湊港線を譲り受け、
2002年4月1日から正式に万葉線の路線として運行するようになった。
路面電車での第三セクターは日本初である。
電車もすべて譲り受けたが非冷房車もあり顧客離れを加速させるとして、
2004年1月21日より超低床連接車両MLRV1000形を導入した。
これは深紅に塗色され、「アイトラム」という愛称が付けられている。

富山ライトレールはJR富山港線をLRT化したものであり、
JRの所有する鉄道路線がLRT化されるという珍しいケースで誕生した会社である。
富山港線は1924年7月23日に富岩鉄道によって敷設された路線で、
開業当時の路線は富山口−岩瀬港(現・岩瀬浜)間だった。
1928年7月11日には富山まで延伸し、北陸本線に接続を果たしている。
1941年12月1日に富岩鉄道が富山電気鉄道へ路線を譲渡し、富山電気鉄道富岩線となった。
富山電気鉄道は1943年1月1日に「陸上交通事業調整法」に基づき、
富山県内のすべての市営、公営の鉄軌道とバス路線を合併し、富山地方鉄道となった。
富山地方鉄道の母体となったのは富山電気鉄道で、
現在の地鉄鉄道線の本線の電鉄富山−電鉄黒部間と立山線の寺田−岩峅寺間を所有していた。
そのほか現在は廃止された加越線を所有していた加越鉄道、
地鉄鉄道線の上滝線、立山線の岩峅寺−立山間を所有していた富山県営鉄道、
本線の電鉄黒部−宇奈月温泉間を所有していた黒部鉄道、
射水線を所有していた越中鉄道、
軌道線である富山地鉄市内線を所有していた富山市営軌道を合併している。
射水線は富山と射水を結ぶ鉄道線で、
富山新港の建設で分断され、高岡側は加越能鉄道に譲渡され、
現在は万葉線新湊港線として残っているが、
富山側である区間は1980年3月31日に廃止されている。
1943年1月1日付で富山地方鉄道富岩線となったが、
同年6月には戦時買収で国有化され、このときに富岩線から富山港線に名称が変更された。
北陸地域は交流区間であるが、富山港線は直流のため交直流形電車や一部気動車が運行されていた。
国鉄からJR西日本に移管されたが、
2003年にJR西日本は富山港線のLRT化の計画を発表した。
これは単に従来の赤字路線の切り離しによる第三セクター化ではなく、
軌道線に転換することによって駅の新設や列車の増発などで利便性を高め、
地域住民にとって利用しやすい路線に転換することを目的とするものである。
富山市や富山県が中心となって2004年4月21日に第三セクター富山ライトレールが設立され、
2006年3月1日にJR富山港線は廃止、
約2ヶ月間の運休の間に降圧に対応した変電所の開設や新駅、新ホームの設置などが行われた。
奥田中学校前から富山駅北間は経路変更がされ、併用軌道を走るルートに変更された。
そのため富山港線では唯一富山口駅が廃止となっている。
新設された電停は4つで、その命名権が発売され、
インテックと大阪屋ショップが買い取り、
それぞれ「インテック本社前」と「粟島(大阪屋ショップ前)」と命名された。
北陸新幹線金沢延伸開業時には富山駅も高架化され、
それに伴って富山ライトレールと富山地方鉄道市内軌道線との相互乗り入れも検討されている。
富山ライトレールのケースは今後の地方鉄道の切り離しによる第三セクター化に対し、
一つのモデルケースになりうるかどうか注目するべきものである。

2008/09/04 0:11


  3.“G+GG”−二つのグリーン車の旅と最速のGG信号

7月25日金曜日に夏期休暇のうちの一日を取得し、
いよいよ“北陸フリーきっぷ・グリーン車用”で富山高岡旅行に出かける。
05:33の上りで津田沼に行き、ここで始発に乗り換える。
秋葉原から京浜東北線で東京駅に行く。
今回は幕張駅でSuicaで入場し、
新幹線改札口をくぐる際に先に事前購入していた“北陸フリーきっぷ”を挿入し、
跡から新幹線改札口のICカードタッチパネルにSuicaをタッチする。
これで幕張−小岩間の\290が自動的にSuicaで精算されるのである。
早めに東京駅にやってきたのでまずは車両取材する。
そのあとに売店で駅弁購入する。
今回は「牛肉弁当」\1,000。
「秘伝のたれ付」で、
「白神大豆醤油『味雲水』と和三盆を使用」と、
「甘みとコクが際立つ関東風のすき焼き煮に仕上げました」と書かれている。
今回はグリーン車用なので乗る時からちょっと優越感がある。
07:00ちょうど発の「Maxとき303号」でE4系の8号車2階22番D席だった。
「Max・・・」は2階建て車両で2階の席である。
普通車は車号ごとに席の番号が付けられているのに対し、
グリーン車は3両の2階席を使っているために通し番号となっている。
1時間12分で越後湯沢に着く。
車中で駅弁を喰ってから少しうとうとするが、
さすがに近くて爆睡は出来なかった。
寝過ごしてしまっては大変である。
越後湯沢での乗り換え時間は8分である。
夏場にも関わらず多くの乗客がここで降りて階段は混雑していた。
越後湯沢からは「はくたか2号」で富山まで行く。
出来れば北越鉄道の683系“スノーラビット”に乗りたかったが、
JR西日本仕様681系だった。
となりのホームでは583系が回送電車として泊まっていた。
取材したかったがもちろんそんな余裕はない。
車両取材がようやくで、あわてて1号車まで歩いていく。
「はくたか2号」のグリーン車は1号車で座席は4番C席である。
681系及び683系のグリーン車は2+1の配列になっていて、
C席は一人掛けなのである。
隣に他人が座ることもないので一人旅には快適である。
ここから1時間54分で富山に着く。
越後湯沢から上越線で六日町まで行き、
ここから北越急行ほくほく線経由で犀潟まで行く。
北越急行は旧国鉄の未完線“北越北線”を引き継いで誕生した第三セクターで、
特急「はくたか」はここを通って日本海に出る。
第三セクターというと地方の赤字線で田舎の中をのんびりと走るイメージがあるかもしれないが、
ここは大部分を高架が占め、しかも直線に近い線形のために、
通常なら在来線最高速度130km/hと決められているところを、
特別に160km/hでの運転が認められている。
新幹線を除く在来線の中では最高速度である。
この時に使用される信号は“GG信号”といって、
一般的な信号は“赤、青、黄”なのに対し、
北越急行では“青”が二つ並んだ4燈信号が用いられ、
緑が二つ点灯した時には160km/hでの運転が許可されるのである。
単線ながらこのGG信号によって「はくたか」の速達時間も上がっているのである。
犀潟から信越本線で直江津まで行き、
ここでJR西日本の乗務員と交代して北陸本線を金沢まで行く。
直江津での乗務員交代と同時にワゴンサービスも乗車してくる。
検札が一段落するとおしぼりを配って歩く。
さすがにグリーン車は待遇がいい。
ワゴンサービスでコーヒーを頼んで一息つき、
そして10:14富山に到着する。

2008/09/05 11:18

画像:東京駅に停車中のE4系「Maxとき303号」 撮影時刻 2008/07/25 06:55:26


  4.富山地方鉄道市内線と富山ライトレールの取材 パート1

富山駅に到着してまず目についた高山本線のキハ130系を取材し、
改札を出て駅前の富山市観光案内所で1日フリーきっぷの、
「富山まちなか・岩瀬フリーきっぷ」\800を購入する。
これは地鉄市内電車、富山ライトレール、地鉄バス\270区間が乗り放題になるというもの。
これで富山地方鉄道市内軌道線と富山ライトレールの両方を取材できる。
カード式で該当する年月日のところを削り、下車する時に運転手に見せるという方式。
最初の計画では午前中に富山ライトレールを取材するつもりだったが、
南口に来てしまったのでそのまま富山地方鉄道市内軌道線を取材することにした。
これは以前富山に来た時に少しだけ取材したことがあるが、
その時は富山駅前でちょっと車両取材しただけなので、
今回は全電停取材を決行する。
地鉄ビル前、電気ビル前、桜橋と歩いて取材し、堀川小泉まで行く。
徒歩で小泉町まで戻って終点南外山まで行き、ここで地鉄不二越線の駅取材もする。
鉄道線のホームの手前に軌道線がとりつく形で駅が構成されている。
西中野まで行って、広貫堂前、上本町、西町、荒町と取材し、
取材が抜けていた大町まで行ってここで「創菜キッチン トミッポ」で、
ハンバーグとエビフライの盛り合わせ\1,200喰う。
手ごねできちんと作られたハンバーグで、付け合わせも豊富で満足した。
午後は富山駅前まで戻り、富山ライトレールの取材をする。
富山ライトレールは地鉄市内線とは反対側の北口に電停がある。
ここから供用区間を走り、奥田中学校前から専用区間に入る。
専用区間は元々JR富山港線として敷設されていたものである。
奥田中学校前は親切の供用区間から専用区間に入る入り口の電停で、
LRT化の際に新設されたものである。
命名権を売り出したが買い手がつかず、仮称がそのまま電停名になった。
新設の路線だけに駅のデザインは統一されていている。
となりの下奥井は相対式2面2線だが、踏切を挟んで斜めに設置されている。
富山ライトレールの駅はホームの屋根を支えている4本の柱の間にガラスがはめられており、
その真ん中は駅名表示板や時刻表、駅付近の地図が掲示してあり、
左側が広告スペースとなっているが、右側には駅にまつわる写真が掲示してある。
これは“電停個性化スペース”と呼ばれていて、協賛会社によって設置されているものである。
その写真の解説として、下奥井電停では以下のような文章が添えられている。

  下奥井駅旧駅舎(すれ違い)

 富山港線は大正13年、民間が出資した富岩鉄道として開通。
 昭和18年に国鉄富山港線となり、平成18年2月までJRの運営になっていました。
 下奥井駅は昭和2年、貨物扱いの駅として設けられました。
 戦後は人と貨物の輸送量が増大して運行本数も増えたため、
 城川原駅だけでなく、下奥井駅でも「すれ違い」を行っていました。
 今もホームに残る曲がった線路は、かつて相対式の2面だったことの名残り。
 昔は近隣工場への引き込み線もありました。

下奥井駅の直ぐとなりには富山化学の工場があり、このスペースも富山化学の協賛で設置されている。
となりの粟島(大阪屋ショップ前)電停も新設電停で、
ここはネーミングライツを大阪屋が購入してこういう電停名となった。
下りホームからは直接大阪屋ショップ粟島店の駐車場に行くことが出来る。
この電停の電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  富岩運河

 富山港から神通川右岸を沿うように流れ、富山駅北に達する約5キロの運河。
 昭和5年、都市計画事業として県が着工して昭和9年に完成。
 運河地帯には各種の工業が立地しました。
 中間地点の中島に水位差を越えて運行できるパナマ式閘門があり、
 全国的にも珍しい運河として知られています。
 物資の運搬が鉄道やトラックに変わった戦後は荒廃し、貯木場となっていましたが、
 昭和60年以降MIRAI計画による整備事業が行われ、環水公園とともに甦りました。

次の越中中島での電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  中島閘門

 国指定重要文化財

 富岩運河の開削にあわせて昭和9年に完成した運河のシンボル的建造物。
 運河の河口から約3.1キロ上流にあり、
 およそ2.5メートルの水位差を2対の扉で調整するというパナマ運河方式を採用した閘門で、
 当時の最先端の土木技術が投入されました。
 完成から60年以上が経って老朽化が進んだため、
 原形復元を基本方針に改修工事を行い、平成10年に完成。
 同年、昭和の土木建造物として全国で初めて国の重要文化財に指定されました。

この次の城川原はJR時代からすれ違い駅としての位置にあったが、
相対式2面2線ですれ違いができるようになっている。
またここは富山ライトレール株式会社の本社もあり、車両基地も兼ねている。
そのため側線には本日運行に当たっていない“ポートラム”が留置されている。
ここの電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  城川原駅車両基地

 富山港線は大正十三年、富山北部工業地帯と岩瀬浜の発展を目的に営業開始した富岩鉄道が前身。
 戦後の高度成長期には、工場地帯の貨物輸送の大動脈として活躍してきました。
 富山港線は単線のため、城川原駅が「すれ違い駅」になっていました。
 旧型国電車両が使用されていた頃は車両基地も北陸本線が交流電源だったのに対し、
 富山港線は直流電源の車両を使用していたため、
 ここで切り替え整備を行う必要がありました。

次の犬島新町も富山ライトレールとなって新設された電停であり、
命名権を販売して売れ残ったため、仮称がそのまま電停名となった。
ここの電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  住友運河

 富山港から富山駅北を結ぶ富岩運河には2本の支流があります。
 岩瀬港付近にあるのが岩瀬運河、中央部付近にあるのが住友運河です。
 昭和10年の富岩運河完成と共に形成された臨海工業地帯が発展し、
 エリアが拡大したため、昭和15年、
 富岩運河に連結する新たな水路として岩瀬運河、住友運河が開削されました。
 住友運河は木材運搬基地として活用されました。
 多くの木材が浮かぶ水辺は、子供たちの格好の遊び場になっていたそうです。

次の蓮町電停はフィーダーバス接続駅である。
これは列車の到着にあわせてホームから直接バスに乗れるようになっているもので、
四方神明町バス停とを結んでいる。
バスには「PORTRAM FEEDER BUS」と書かれている。
また駅の直ぐそばには馬場記念公園がある。
ここの電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  旧制富山高等学校・馬場記念公園

 旧制富山高等学校は大正十二年に創設が認可。
 東岩瀬町の仮校舎を経て蓮町(現・馬場記念公園)に校舎が建てられ、
 七年制の高等教育機関として全国に注目を集めました。
 学制改革で昭和二十四年に富山大学へと受け継がれましたが、
 三七〇〇人余の人材が育成されました。
 この学校の生みの親が岩瀬町出身の馬場はる。
 廻船問屋・馬場家に嫁いだはるは夫を亡くして以来、すべての事業を仕切り、
 高等学校の設置を願って延べ一六〇万円余り(現在の金額で約一六〇億円)を県に寄付しました。
 跡地である馬場記念公園は四季を通じて花と緑に囲まれ、
 地元の人の憩いの場となっています。

次の大広田電停に到着した時にポツポツと雨が降り出してきた。
これはやばいかなと思ったが、直ぐに止んでしまった。
ここの電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  金刀比羅社・一山家別邸「静嘉亭」

 金刀比羅社は元治2年(1865)、岩瀬港の守護神として建立されました。
 境内に立つ燈籠は北前船の常夜燈で、当時は燈台の役目も果たしていたとされています。
 これは現在、神社のそばに立つ富山港展望台のデザインモデルにもなっています。
 また、大広田駅近隣の高台、高畠地区には昭和初期、東岩瀬町名誉町長であり東岩瀬港の復興や
 富岩運河の建設に尽力した米田元吉郎氏が建てた別荘兼ゲストハウス「静嘉亭」がありました。
 当時、その座敷には大きな屏風絵「富山湾八景」が飾られていました。
 そこには世界各国の船が港に出入りする光景など、
 米田氏が東岩瀬港に寄せた夢が描かれていました。

東岩瀬はJR時代の駅舎がそのまま保存され、休憩室として利用可能になっている。
またJRのホームも一部残されていて、JR富山港線時代の面影を唯一感じることができる。
以前富山に来た時には富山港線完乗のため岩瀬浜駅には来たことがあったのだが、
東岩瀬駅は素通りしてしまった。
歴史的にも貴重な駅舎だったのだ。
駅の横に設置された看板には以下のように書かれている。

  東岩瀬駅

 旧富山港線時代から唯一残る駅舎。
 富岩鉄道の駅として開業した当時からの駅舎は富山ライトレールへの運行移管後も保存されており、
 2007年に改修され休憩施設として利用されている。
 旧ホームは、旧駅舎に差し掛かっている区間が保存されている。

  東岩瀬駅の歩み

 1924年(大正13年)富岩鉄道の越中岩瀬駅として開業。
 1941年(昭和16年)富岩鉄道の富山電気鉄道への路線譲渡(富岩線)
 1943年(昭和18年)国有化により、国鉄富山港線の駅となる。
 1950年(昭和25年)東岩瀬駅に改称。同時に、北陸本線東岩瀬駅が東富山駅に改称。
 1987年(昭和62年)国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。
 2006年(平成18年)3月1日廃止。
            4月29日富山ライトレールの駅として再開業

またここの電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  岩瀬大町通り

 江戸末期から明治期、北前船寄港地として栄えた岩瀬町の目抜き通り。
 石畳で舗装された岩瀬大町通りはかつて加賀藩の官道であり、
 前田利長が参勤交代で行き来した道でもあります。
 通りには見学可能な廻船問屋・森家をはじめ、馬場家、米田家、畠山家などの旧家のほか、
 歴史ある酒造店や和菓子店、海産物店も並んでいます。
 明治時代に建てられた前庭のある重圧な町屋建築も見られ、
 岩瀬の古き良き時代を彷彿とすることができます。

次の競輪場前電停はJR時代は競輪が開催された時の臨時駅だったが、
富山ライトレールに移管後は通年営業になった。
ここの電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  富山競輪場

 昭和26年に開設された県内唯一の競輪場。
 収益金の一部は公共施設整備事業などに利用され、市の財政補助に貢献しています。
 開催される「ふるさとダービー」には全国から多くの競輪ファンが訪れ、活況を呈しています。
 近年には四初心者ガイダンスコーナーやおもしろ自転車広場、グルメスポットなどが整備され、
 健全娯楽の一つとして楽しむ家族連れや女性客も増加。
 広い駐車場もフリーマーケットやイベントに活用されています。

そして終点の岩瀬浜はフィーダーバス接続駅である。
は列車の到着にあわせてホームのとなりに横付けされたバスに乗れるようになっている。
以前に富山港線を来た時の面影は全くない。
ここの電停個性化スペースの解説は以下の2つである。

  北前船

 江戸時代から明治時代にかけて、
 大阪から瀬戸内海、日本海、北海道を往来していた大規模な買積船。
 行きは大阪の酒や木綿、瀬戸内の塩、北陸の縄、米などを北海道に運び、
 帰りは北海道産の昆布や鮭などの海産物を運んでいました。
 岩瀬町はその中継地の一つで、街には多数の廻船問屋が建ち並んでいました。
 富山の売薬産業が発展したのも北前船のおかげ。
 琉球が中国から輸入した薬の原料を薩摩藩を通して仕入れ、
 北前船で富山に運んでいたのです。

  岩瀬曳山祭

 毎年5月17日・18日に行われる岩瀬諏訪神社の祭礼で、
 14基の曳き山車が町内を練り回る勇壮なお祭り。
 曳き山車は富山県内各地に見られる豪華絢爛なものとは趣を異にし、
 頑丈な造りの本体に、和船の帆柱を心柱にした「たてもん」と呼ばれる飾りを取り付けるのが特徴。
 昼はお囃子の演奏と木やりの音頭と共に曳き回しが行われ、
 夜は山車同士が激しくぶつかり合う曳き合いが行われます。
 この激しさから「けんか山車」の呼び名でも親しまれています。

岩瀬浜から一端一気に富山駅北まで行き、ここから一つ先の、
唯一の供用区間にある新設駅インテック本社前電停を取材する。
ここは電停名からもわかるとおり、ネーミングライツを売り出し、
電停前にあるインテックが命名権を購入してこのような電停名となった。

ここの電停個性化スペースの解説は以下の通り。

  富岩運河環水公園

 かつて富山市街地と東岩瀬港を結ぶ水上交通として利用されていた富岩運河の船だまりを活用。
 とやま都市MIRAI計画のシンボルゾーンとして1999年に完成した親水公園。
 澄んだ水をたたえるカナルレイクを中心に、遊歩道や芝生スロープ、
 展望台のあるカナルブリッジなどが整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
 カナルブリッジのデッキから流れ落ちる滝のカーテンは「水の王国とやま」を象徴するような美しい光景です。

このあと最初に取材しながら電停個性化スペースの取材をし忘れていた奥田中学校前まで歩き、
改めて電停個性化スペースを取材した。

  富山県立薬業学校

 配置薬業で地位を築いた富山の売約業者たちが明治26年、
 豊富な薬の知識を持つ人材の育成と薬業の近代化を目的に、
 私費を投じて共立富山薬学校を設立しました。
 この学校は後に県立薬業学校、県立薬業専門学校となり、
 大正2年には全国初の薬剤師を世に送り出しました。
 大正9年に官立薬業専門学校に発展。
 その後は国立富山大学薬学部、国立富山医科薬科大学(現富山大学薬学部)の設立へと受け継がれ、
 富山県の薬学教育を支えています。

ここから再び富山駅北に戻り、ここでも電停個性化スペース取材をする。
さすがは始点だけあって電停個性化スペースの掲示も5つもあった。
解説は以下の通り。

  おわら風の盆

 神通川の支流、井田川のほとりに広がる八尾地帯はかつて宿場町として栄えたまち。
 「おわら風の盆」は毎年9月1日から3日間、この町を舞台に繰り広げられます。
 この祭りは立春から数えて二百十日にあたるこの期間に襲来する風害を治め、五穀豊穣を祈る神事。
 哀愁を帯びた胡弓と三味線が奏でるおわら節に合わせ、男女ともに編笠をかぶり、
 男は黒の法被、女は山繭縮緬の浴衣で石畳と格子戸の町を流す姿には、
 賑やかな盆踊りにはない幻想的な美しさがあります。

  全日本チンドンコンクール

 毎年4月上旬、満開の桜並木に彩られた富山城址公園を中心に開催される富山の春の風物詩。
 富山大空襲から10年経った昭和30年、廃墟から立ち上がる市民に娯楽を提供し、
 再建への意欲を盛り上げようと、「桜まつり」にあわせてチンドン屋の大会を開催したことがはじまり。
 全国から集まったチンドンマンが技を芸を競い合うコンクール、
 松川沿いのパレードなど多彩な企画があり、
 市民参加型の恒例イベントとなっています。

  立山連峰

 富山平野の背後にそびえる標高3000メートル級の山々。
 立山連峰の雄山は中心に劔岳、薬師岳、大日岳、白馬岳、鹿島槍ヶ岳などの山脈を総称した呼び名です。
 日本三大霊峰の一つ、神が宿る山として古くから全国の信徒が訪れました。
 立山信仰を布教するため用いられた立山曼荼羅絵図には、
 立山の山岳景観を中心に地獄や浄土、登拝道などが細密に描かれています。
 観光名所としても知られ、雄大な自然景観が楽しめる立山黒部アルペンルートのほか、
 立山博物館、立山カルデラ砂防博物館などの見学施設も整備されています。

  鱒の寿司

 享保2年、富山藩士の吉村新八が神通川でとれた鱒で押し寿司を作り、
 藩主・前田利興から高い評価を受けたことで、
 時の将軍・徳川吉宗にも献上し、絶賛されたことで富山の名物になりました。
 純白の越中米、薄紅色の鱒、緑のくま笹が醸し出す上質な風味と色彩のハーモニーは
 味、知名度、パッケージデザイン共に3拍子揃った富山の名産品。
 全国の駅弁大会でも人気を誇る「横綱駅弁」として知られています。
 富山市内には多くの専門店があり、味やパッケージにそれぞれの店のこだわりが感じられます。

  売薬

 古木は立山信仰の修験者に起源を持つ越中売薬。
 元禄3年(1690)、
 参勤交代で江戸城にいた富山藩主・前田正甫が腹痛を起した大名に「反魂旦」を差し出し、
 回復させたことで有名になり、
 以来、先用後利(使用が先、利益は後から)という独特な家庭配置薬商法は全国に広まり、
 富山の主要産業として確立されました。
 この莫大な金融資本は水力発電を生み、地場産業であるアルミ、
 科学、パルプなどの産業を発展させる基礎になりました。
 市内には見学可能な薬問屋や売薬資料館などがあり、
 その歴史を紐解くことができます。

このあと高岡までで、予約しておいたスーパーホテル高岡駅南にチェックインする。
2泊分で\9,960だった。
ここは鍵の代わりに領収書として発行されたレシートに部屋番号と暗証番号が書かれ、
それに従ってドアについているテンキーから暗証番号を入力する。
そうするとキーが解除される仕組みになっている。
このシステムのために鍵を返却する必要もなく、チェックアウトが省ける。
荷物を置いてから駅の反対側に出て、
前回来た時に気になっていたが結局入らなかった「点心居酒屋 太陽」に入る。
オーダーは味噌チャーシューメン\1,000。
外観はケバケバしかったが、中は普通のラーメン屋さんだった。
食後に少し万葉線を夜撮し、駅売店でつまみなどを買い、
さらにコンビニでビールとつまみを買って部屋に戻り飲む。
売店で富山ライトレールも中というものを見つけ、思わず買ってしまう。

2008/09/11 0:05

画像:粟島(大阪屋ショップ前)電停に停車中の「ポートラム」 撮影時刻 2008/07/25 14:01:44


  5.万葉線の取材と“ますのすし”

2日目の朝はホテル内の無料朝食を喰い、8:00a.m.頃出掛ける。
普段は和食と洋食が選べる時は洋食をチョイスするのだが、
ここはおかずが和食系中心だったので、ごはんと味噌汁を選んだ。
今回は高岡駅から伸びる万葉線の取材のため、
ホテルを出てJR高岡駅を反対側に出たら直ぐに取材開始となる。
最初に乗った車内で万葉線・如意の渡し1日フリー乗車券\800を購入する。
これは万葉線全線と万葉線中伏木からJR氷見線伏木駅までの、
小矢部川を渡る渡船「如意の渡し」がセットになったものである。
万葉線では、土曜、日曜、祝日の車内アナウンスは、
落語家で新湊出身の立川志の輔氏が担当している。
まずは二つ目の電停である末広町まで行き、ここで歩いて片原町(山町筋入り口)まで行く。
万葉線は15分間隔で運行されているため、乗車移動だけでは取材困難である。
そこでなるべく徒歩移動で時間を稼ぐようにしなければならない。
本丸会館前、広小路、志貴野中学校前(高岡市役所前)、市民病院前、江尻、旭ヶ丘、荻布と取材し、
新能町電停取材後にJR氷見線能町駅まで歩き、
駅取材後にちょうど来た列車に乗車して高岡まで戻る。
高岡から再び万葉線に乗り込み、米島口アルビス米島店前まで行く。
ここは万葉線本社、米島車庫のある場所で留置車両も取材する。
ここで親子連れに声をかけられ、電車を待つ間にいろいろと話す。
ここからは一端専用線に入ってJR氷見線を跨線橋で越えて能町口電停へと行く。
ここから再び供用区間に入り、新吉久、吉久と行く。
この二つの電停は道路に白線で区分がしてあるだけでプラットホームはない。
この先から射水市に入る。
射水市ではその駅にまつわる万葉歌が紹介されていて、解説が加えられている。
中伏木の「越中万葉歌」は以下の通り。

 朝床に 聞けば遙けし
    射水川
 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人
      (大伴家持の歌 巻一九・四一五〇)
 【歌の意味】
 朝の床のなかで耳を澄ますと、遙か遠くから聞こえてくる。
 射水川を朝漕ぎしながらうたう舟人の声が。

  天平勝宝二年(七五〇年)三月一日の夕方から三日の朝にかけて、
 大伴家持がよんだ一二首の最後の歌です。
 この十二首を越中(今の富山県)でよんだ家持の代表作として
 「越中秀吟」と呼んでいます。
  射水川(今の小矢部川)を漕ぎのぼる舟人の歌声を聞いて、
 当時の都があった平城京(今の奈良市)を離れて一人でやって来た家持は、
 突然さびしさを感じました。
 このときの舟人の歌声がどのようなものだったかは、全く想像できません。
 しかし、家持の心が大きく揺り動かされたことだけは確かです。

                         射水市

この中伏木は如意の渡しへの乗り換え電停であり、運行している時にはその旨が掲示されている。
次の六渡寺は旧電停名が「新湊」といい、高岡軌道線はここまでである。
ここからは鉄道線である新湊港線に入ることになる。
一端新吉久まで行き、新湊に戻る。
新吉久は道路に電停位置が書かれているだけでプラットホームなどはない。
道路の脇に屋根のついた待合室があり、
電車が到着してから乗り込むようになっている。
いずれにしても道幅が狭く、交通量もそれなりにあるので乗り降りには注意が必要である。
六渡寺はもともと別の路線であった高岡軌道線と新湊港線の接続駅であり、
今でもその名残として上下線の交換駅となっている。
六渡寺の「越中万葉歌」は以下の通り。

 奈呉の海人の 釣する舟は
   今こそば 舟棚打ちて
         あへて漕ぎ出め
      (秦八千島の歌 巻一七・三九五六)

 【歌の意味】
 奈呉の浦の海人たちが釣りをする舟は、
 今こそ舷(舟のへり)の横板を勢いよくたたいて、
 どんと漕ぎ出すがよい。

  天平十八年(七四六年)、大伴家持は国守(今の県知事のような職)として
 越中(今の富山県)にやってきました。
 そして、家持を歓迎する宴のひとつが、部下の秦八千島の館でひらかれました。
  八千島の館は、今の高岡市伏木の高台の、
 とりわけ見事に奈呉の浦(今の新湊市一帯の海)が見えるところにあったようです。
 当時の奈呉の浦には漁師がたくさん住んでいたのでしょう。
 その漁師たちの威勢のよさを「ぜひ家持さまにみせたい」と思って、
 八千島はこの歌をよみました。

                         射水市

次の吉久は新吉久同様に道路に電停位置が書かれただけの簡易電停である。
新吉久の待合室は鉄製だが、吉久の待合室は木造にトタンが貼り付けてあるだけである。
庄川の鉄橋を渡って直ぐにある庄川口は、単線だが左右にホームがある。
庄川の鉄橋は欄干が全くなく、橋の上に一本の線路が引いてあるだけで、
強い風が吹いたら川に落下してしまわないかとちょっと心配になってしまう。
庄川口の「越中万葉歌」は以下の通り。

 奈呉の海の 沖つ白波
 しくしくに 思ほえむかも
         立ち別れなば
      (大伴家持の歌 巻一七・三九八九)

 【歌の意味】
 奈呉の海の沖の白波がひっきりなしに立つように、
 私もひっきりなしにみんなのことを思い出すだろう。
 旅だってお別れしたのならば。

  天平一九年(七四七年)、大伴家持は正税帳という収支決算書を提出するために、
 当時の都があった平城京(今の奈良市)に出かけることとなりました。
 出発前の四月二〇日(今の暦で六月二日)、
 部下の秦八千島の館で送別会が行われました。
  八千島の館は奈呉の海(今の新湊市一帯の海)がよく見えるところにありました。
 そこで家持は、目の前に広がる美しい白波によせて、
 留守のあいだも仕事を続ける部下たちを思いやる気持ちを歌によみました。

                         射水市

次に一気に海王丸まで行く。
ここは富山港にある海王丸パークや海王バードパークの最寄り駅となっている。
しかし駅周辺は寂れていて、それほど多くの利用客があるというわけではない。
海王丸の「越中万葉歌」は以下の通り。

 奈呉の海に 潮のはや干ば
   あさりしに 出でむと鶴は
         今ぞ鳴くなる
      (田辺福麻呂の歌 巻一八・四〇三四)
 【歌の意味】
 奈呉の海には、潮が引いたらすぐにでも餌をさがしに出ようと、
 鶴が今しきりに鳴いているようです。
 
  天平二〇年(七四八年)三月二三日(今の暦で四月二五日)、
 都(今の奈良市にあった平城京)から仕事でやってきた田辺福麻呂を歓迎する宴が、
 大伴家持の館でひらかれたときの歌です。
  万葉集の歌人たちは旅先で鶴の鳴き声を聞くと、
 家で留守番をしている人のことをなつかしく思い出しました。
 福麻呂と家持はどちらも都で妻が留守番をしていたので、
 「いっしょだ」という気持ちを福麻呂は読みました。

                         射水市

次に行った中新湊は島式1面2線のちゃんと屋根のある鉄道の駅らしい作りになっている。
信号により上下線がすれ違いをする駅なのだが、
供用区間もある鉄軌道直通線なので遅れることもあるようで、
無線で本部に確認し、運転手が駅設備を手動で動かして信号を変えて発進することもあるようである。
中新湊の「越中万葉歌」は以下の通り。

 奈呉の海に 舟しまし貸せ
   沖に出でて
 波立ち来やと 見て帰り来む
      (田辺福麻呂の歌 巻一八・四〇三四)

 【歌の意味】
 奈呉の海に出るので舟を私にちょっと貸してください。
 沖に漕ぎ出て、波が立ち寄せてくるかどうかを見て帰って来たいのです。

  天平二〇年(七四八年)三月二十三日(今の暦で四月二五日)、
 都から仕事でやってきた田辺福麻呂を歓迎する宴が、
 大伴家持の館でひらかれました。
  当時の都があった平城京(今の奈良市)には、海がありませんでした。
 家持の館は高岡市伏木の高台にあったので、
 奈呉の海(今の新湊市一帯の海)をながめることができたのでしょう。
 そこで、ふだん目にすることがない海を目の前にした福麻呂は、
 「波はどこから寄せてくるのだろうか」という好奇心を、
 すなおに歌によみました。

                         射水市

このあと終点の越ノ潟に行く。
新湊港線はもともと富山地鉄射水線だったのだが、
富山新港建設に伴って分断され、高岡側は越ノ潟で切られる形になった。
本来ならこの先も海岸線添いを富山まで続いていたのである。
富山側に残されたの射水線も廃止になり、現在では新湊港線だけが、
射水線の名残を残している。
駅の先には“富山県営渡船越の潟発着場”があり、分断された先に行けるようになっている。
因みに万葉線では「越ノ潟」と表記するが、県営渡船では「越の潟」となっている。
越ノ潟の「越中万葉歌」は以下の通り。

 あゆをいたみ 奈呉の浦みに
   寄する波
 いや千重しきに 恋ひわたるかも
      (大伴家持の歌 巻一九・四二一三)

 【歌の意味】
 「あゆの風」が激しく吹いて、奈呉の浜辺へとくり返しくり返し寄せてくる波のように、
 私もますますしきりにあなたのことを恋しく思いつづけています。

  天平勝宝二年(七五〇年)五月に大伴家持が、
 当時の都があった平城京(今の奈良市)に住む親類の家に贈った歌です。
 海を見たことがない親類の女性を懐かしむ気持ちを、
 くり返し寄せてくる波にこめています。
  「あゆの風」という越中(今の富山県)の方言や、
 「奈呉の浦」(今の新湊一帯)という風景をよんだのは、
 都に住む人にもぜひこのすばらしさを知ってほしいと思ったからです。

                         射水市

次の東新湊は日本高周波鋼業富山製作所正面脇にあり、
車内アナウンスでもこの会社の名前を云っている。
東新湊の「越中万葉歌」は以下の通り。

 波立てば 奈呉の浦みに
  寄る貝の 間なき恋にそ
         年は経にける
      (田辺福麻呂の歌 巻一八・四〇三三)

 【歌の意味】
 波が立つたびに奈呉の浜辺へと絶え間なく寄せてくる貝のように、
 私も絶え間なくあなたのことを恋しく思っているうちに、
 年月が過ぎてしまいました。

  天平二〇年(七四八年)三月二三日(今の暦で四月二五日)、
 都(今の奈良市にあった平城京)から仕事でやってきた田辺福麻呂を歓迎する宴が、
 大伴家持の館でひらかれたときの歌です。
  家持と福麻呂は、前からの友だちだったようです。
 友だちと久しぶりに会えた福麻呂はとてもうれしかったのでしょう。
 波によって浜辺へとうち寄せる貝に思いをこめて、
 まるで恋人と会えたときのような喜びを歌によみました。

                         射水市

射水市新湊庁舎前はもともと“新湊市役所前”という駅名だったが、
2005年11月1日に合併によって新湊市が射水市となったため、
それによって駅名も変更された。
射水市新湊庁舎前の「越中万葉歌」は以下の通り。

 あゆの風 いたく吹くらし
  奈呉の海人の 釣りする小舟
         漕ぎ隠る見ゆ
      (大伴家持の歌 巻一七・四〇一七)

 【歌の意味】
 「あゆの風」が激しく吹いているのだろう。
 奈呉の浦の海人たちが釣りをする小さな舟がこいでいくのが、
 波間に見え隠れしている。

  天平二〇年(七四八年)正月二九日、(今の暦で三月二日)に、
 大伴家持がよんだ歌で、越中(今の富山県)にいたときの代表作のひとつです。
  じつはこの歌の「あゆの風」という言葉には、
 「越の俗の語に東風をあゆのかぜと謂ふ(越中の方言で東風を
 「あゆのかぜ」と言う)」という説明がついています。
 家持が育った平城京(今の奈良市)では春のはじめに吹く
 強い東風を「こち」 と呼んでいました。
 それを越中では「あゆの風」と言うのに驚き、
 みんなにも伝えたいと思った家持が、この説明を加えました。
  海から吹いてくる激しく冷たい北風でっても、
 待ちに待った春を告げる風にはちがいありません。
 「あゆの風」という言葉には、
 春が来たことを喜ぶ家持の気持ちがこめられています。

                         射水市

この射水市新湊庁舎前で偶然見付けた「琥珀物語−第二章−」という、
ちょっとお洒落な喫茶店で昼食を取る。
オーダーはオムライス\590。
ボリュームも結構あり、
スープ、サラダ、ババロアがついてこの価格は安いと思う。
もちろん、味にも満足した。
このあと一端高岡軌道線に戻り、
取材が漏れていた志貴野中学校前、荻布と取材し、
再び新湊港線に戻って新町口を取材する。
新町口の「越中万葉歌」は以下の通り。

 湊風 寒く吹くらし
  奈呉の江に 妻呼び交し
          鶴さはに鳴く
      (大伴家持の歌 巻四〇・一八)

 【歌の意味】
 河口の風が寒々と吹いているのだろう。
 奈呉の入り江で、つがいがお互いを呼びあって、
 鶴がたくさん鳴いている。

  天平二〇年(七四八年)正月二九日、(今の暦で三月二日)に、
 大伴家持がよんだ歌です。
  当時の奈呉の(今の新湊市一帯)は鶴がたくさん飛びかう場所だったようです。
 万葉集の歌人たちは旅先で鶴の鳴き声を聞くと、
 家で留守番をしている人のことをなつかしく思い出しました。
 家持もまた都(今の奈良市にあった平城京)に妻を残して
 越中(今の富山県)にやって来たので、
 雄の鶴が「妻(=雌)」と呼びあっている声を聞いて、
 急に都がなつかしくなったのです。

                         射水市

米島口アルビス米島店前に戻って米島車庫で再び車両取材し、
中伏木に行って如意の渡しまで歩き、渡船に乗車する。
この1日フリー乗車連は万葉線と如意の渡しの共通券であり、
これで如意の渡しにも乗れるのである。
船着き場には如意の渡しの説明が書かれていた。

 如意の渡

  室町時代の軍記物語「義経記」の中に、
 「如意の渡」にて“義経を弁慶打奉る事”という逸話がありますが、
 この「如意の渡」は文治三年(一一八七)奥州に落ちる義経一行が
 如意の渡から船で六渡寺にすすもうとしましたが、
 渡守の平権守が“義経をさして判官殿(義経のこと)ではないか”と怪しみました。
 もし義経であることが見破られ、
 頼朝に通報されたら一大事と考えた弁慶は
 “あれは加賀白山よりつれてきた御坊で判官殿と思われるのは心外だ”と言って
 とっさに疑念をはらすため、扇で義経をさんざん打ちのめしました。
 このようなやり取りがあって、一行はめでたく如意の渡を渡りました。
 この話は、扇が金剛杖になったり場所も安宅の関になるなど、
 だんだん変えられて、のちの謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」が創作されました。

     平成元年十一月
                                新湊市観光協会

如意の渡しは乗船わずか5分足らずで向こう岸まで行くことが出来る。
船頭がいろいろと話しかけてきてくれて、
乗っている間も飽きることがなかった。
帰りにはわざわざ追いかけてきてくれて、
乗船記念スタンプと日付印を押した“乗船のしおり”を渡してくれた。
こういう心配りが次の観光客増にも繋がっていくと思う。
ここからJR氷見線伏木まで歩き、駅取材してから下り列車を待つ。
予定では氷見線雨晴の取材は明日と考えていたのだが、
上り列車のダイヤがひどく開いていたため、
まだ十分に自然光で取材が出来る光量もあったので、
雨晴の駅取材を決行することにした。
上り列車を待つ間に雨晴海岸まで行ってみる。
雨晴は義経と弁慶が雨宿りをした岩があるという逸話から来た駅名で、
逆に云うとそれくらい快晴が少ない場所ともいえる。
しかし取材時には雲ひとつない快晴で遠くまで見渡せた。
この雨晴駅の上りホームの直ぐ脇には首切り地蔵尊があり、
その説明書きには以下のように書かれている。

  首切り地蔵尊

  ここにある地蔵尊は、戦国乱世の頃より、「首切り地蔵尊」と伝えられ、
 能登通いの漁船、旅人の海難除けの守仏として尊ばれている。
  天正五年(一五七七年)七月、上杉謙信は、森寺城を攻めるにあたり、
 軍船を連ねてこの沖合にさしかかると、船が少しも進まなくなった。
 謙信の武将である有坂備中はこの不思議こそ魔神の禍に違いないと、
 上陸し末の間を探ったところ、側にあった地蔵がにこにこと笑っていた。
 備中は「魔神の正体見付けたり。」と一刀のもとにその首を切り落としたところ、
 船はたちまち前進して目的地に向かうことができた。
  なお同年九月、謙信は七尾城を攻略し、能登の地一帯をすべて占領した。
  人々は今も備中の「首切り地蔵尊」としてこの話を今に伝えている。
                           (大田村史から)

                     高岡市商業観光課
                     TEL 二〇−一三〇一

上り列車で高岡まで戻ると、ちょうど城端線で列車の入れ替えをやっていた。
城端線と氷見線には、
富山県出身の漫画家藤子不二雄A氏の人気漫画「忍者ハットリくん」がラッピングされた、
“忍者ハットリくん列車”が運行されていて、
ちょうどその列車が入れ替え作業中だった。
これを取材してから再び万葉線の取材に出る。
最後に残した末広町と高岡駅前の取材を完了させて、
今日の仕事は終わりである。
このあと高岡駅内にある「今庄」で天ぷらうどん\380を喰い、
売店で「ますのすし」\1,700を購入する。
鱒寿司は富山名物であり、“源”は駅などにも専用の売店を持つ業者である。
ホテルに戻って風呂上がりにビールなどを飲みながら、
この「ますのすし」を喰う。
包装の裏側には以下のように書かれている。

 匂いたつほんものの味わい 源の特選ますのすし

  享保2年(1717年)富山藩士吉村新八が、
 神通川を遡上するマスと越中米を用いて作ったますのすしは、
 藩公前田利興より八代将軍徳川吉宗に献上されました。
 食通吉宗は、その見事に調和された味を絶賛し、
 以後、富山名物として雪深い立山を超え、江戸表へ送られることが恒例となりました。
  新鮮でほどよく脂ののったマス、
 立山連峰から流れ出る清流に育まれた富山県産米、
 芳ばしい香りと鮮やかな色彩の国産熊笹を使い、
 調味料などすべての材料を厳選した「源の特選ますのすし」。
 自然の幸が醸し出す味を心ゆくまでお楽しみください。

一人で喰うにはちょっと量が多いかと思ったが、結局完食した。

2008/09/20 0:20

画像:中伏木電停に停車中の万葉線「ハートラム」 撮影時刻 2008/07/26 16:00:39


  6.富山地方鉄道市内線と富山ライトレールの取材 パート2

3日目の朝もホテル内の無料朝食を喰う。
おかずのメニューは昨日と変わっていて連泊の客にも配慮されている。
それでも和食系のおかずだったので、今日も味噌汁とご飯を喰う。
部屋に戻って歯を磨いてから荷物をまとめてホテルを出る。
スーパーホテル高岡駅南はチェックアウトがないので、そのままホテルを出てくる。
高岡駅に行くと氷見線のホームに昨日とは違う忍者ハットリくん列車があり、
それを取材してから08:44高岡発の「はくたか5号」で富山に行く。
予定では氷見線で雨晴に行って駅取材することになっていたが、
これはすでに昨日終わっているために直ぐに富山に向かう。
富山に行って富山市観光案内所で富山まちなか岩瀬\800購入する。
これは一昨日購入したものと同じで、
富山ライトレールと富山地方鉄道市内線の全線が乗り放題になる。
まずは一昨日未取材だった富山駅前−大学前間の電停取材する。
戻ってから北側に出て、今度は富山ライトレールの車両取材する。
富山ライトレールはJR富山港線からの転換で誕生した軌道路線であり、
使用列車はすべて超低床車を新造して運行にあたっている。
新造されたTLR0600形は「ぽーとらむ」という愛称を与えられ、
全7編成は白と黒を基調にアクセントとして編成ごとにそれぞれの色を与えられている。
編成とアクセントカラーは以下の通り。
 TLR0601/レッド
 TLR0602/オレンジ
 TLR0603/イエロー
 TLR0604/イエローグリーン
 TLR0605/グリーン
 TLR0606/ブルー
 TLR0607/パープル
一昨日はTLR0601編成、TLR0604編成、
TLR0605編成、TLR0606編成が運行についていたが、
残りの3編成が未取材だったために今日はその3編成を取材することにした。
TLR0602編成とTLR0603編成は取材できたものの、
結局TLR0607編成は取材することが出来なかった。
このあと富山地方鉄道の鉄道線に行き、改札外から車両取材する。
駅ビル「MARIER」内の「龍之紅河」で青椒肉絲(チンジャオロース)\880喰う。
午後から富山地鉄軌道線の富山駅前でずっと車両取材する。
予定では16:11富山発の「しらさぎ14号」で金沢に行くことになっていたが、
早めに取材が終わったため、
予定より1時間早く、15:07富山発の電車で金沢に行くことにする。
途中、高岡で9分間の停車時間があり、
偶然停まっていたEF510-5を取材する。
また森本でも9分間の停車時間があったため、この間に駅取材する。
16:22に金沢に到着する。
金沢で車両取材してから一端外に出て、駅舎取材する。
金沢駅はすでに取材済みだったが、時間が余ってしまったので外に出て鼓門を取材する。
売店で駅弁「ままごっつお・夏」\1,050を購入し、
17:17金沢始発の特急「はくたか21号」で越後湯沢に向かう。
車内で駅弁を喰い、爆睡する。
帰りももちろんグリーン車で、「はくたか」の681号は2+1の座席構成になっていて、
一人掛けの方を選んでいたのでゆったりと2時間42分を過ごすことが出来た。
乗ったときにはまだ日があったのだが、どんどん日は傾き、
越後湯沢に着いたときには既に夜の帳が降りていた。
途中で車窓から花火を見かける。
越後湯沢で9分の乗り換え時間で上越新幹線「Maxとき348号」に乗り、
1時間2分で東京に着く。
E4系の「Maxとき」は普通車は2+3配列だが、
グリーン車は2+2配列で、
しかも一部は車いす対応のため一人掛けの部分もあり、
そこを予約したので帰りは一人掛けを堪能できた。
総武快速線で津田沼まで行き、各駅停車に乗り換えて帰る。

2008/09/23 18:42

画像:金沢駅に停車中の681系「はくたか21号」 撮影時刻 2008/07/27 17:10:25




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